やすらかな檻
「ねぇ、主さんはずっとここにいてくれるんだよね?」
後ろから抱きつく様にしてくっ付いていた乱が唐突にそう言った。
時刻は昼の三時過ぎ。息抜きがてらのおやつタイム中で、執務室には短刀たちが集まっていた。
審神者になって二ヵ月が過ぎ、この本丸での特殊な生活にも慣れて仕事の合間に休憩をとる余裕も生まれてきた今日この頃。膝に乗った五虎退の虎を撫でつつ、背中に覆いかぶさる乱の温かさを感じつつ、すぐ傍にいる五虎退と前田の視線も感じつつ答える。
「もちろんそのつもりだよ。私はみんなの主だもんね」
「よかったぁ」
嬉しそうに言って、乱は更にくっ付いてくる。回された腕に手を添えながら続ける。
「審神者って職には基本的に期限が無いしね」
「そうなんですか?」
「しいて言えば戦いが終わるまで…だけど、それがいつになるかは正直分からないしね」
なるほど…と呟いてから前田は握っていた湯呑に口を付けた。
「ただ審神者が体調を崩したり仕事を放棄して本丸の維持が出来なくなったら話は別だし……政府の判断で本丸解体、ってのも有るんだ」
「そ、そうなんですか……?」
「本丸の維持が出来なくなると審神者も刀剣男士も危ないからね。何か危険が及ぶ前に解体することはあるよ。それに私達審神者は政府に仕えてるようなものだからねぇ。嫌だって言っても、基本的に命令には逆らえないから」
「そ、そんなの嫌です……」
涙目になって青ざめた五虎退の手から持っていたお菓子が零れ落ちる。それを拾い、手に戻してあげながら宥める様に頭を撫でる。 「だからそうならない様に頑張るよ。みんなも手伝ってくれると嬉しいな」
「は、はい」
「もちろんです」
頷く彼らに笑みが浮かぶ。ようやく軌道に乗り始めたばかりのこの本丸は、短刀が全体の半数以上を占めていた。人懐っこい彼らのお陰で、不慣れな仕事も今まで乗り切ってこられた。
ふと、少し離れた所に座っていた薬研の表情に気付いた。今日の近侍だった彼は会話には参加せず、酷く真剣な顔をして手元を見つめていた。
「薬研、どうかした?」
「えっ」
声をかけると、彼にしては珍しく大きな動揺を見せた。そして私を見る目は、何かに迷う様に揺れている。
「ご、ごめん、何か考え事してた?」
「あ、いや、そうじゃないんだ。悪いな大将」
薬研は動揺をすぐにひっこめ、笑みを浮かべた。大人びたその表情は、それ以上の追及をさせたくない様にも見えた。
「そう……」
「ほら、お前らそろそろ戻れ。大将も仕事を再開しねぇと」
もう少しここに居たそうな兄弟たちを纏め、部屋から送り出す。私にも仕事の続きをするよう、目で促す。
それに従う様に手を動かし、いつもの様に仕事を手伝ってくれる薬研を見ているうちに、さっき抱いた違和感は忘れてしまっていた。
いつの頃からか習慣になった事がある。
「おはよう、大将」
目覚ましの甲高い電子音を止め、もぞもぞと掛布団から這い出てそのままぼんやりしていた私に薬研の声が降ってくる。
近侍も滅多に入らない私の寝室の戸を開けた薬研は、寝間着姿で寝癖もそのままの私とは違い既にしっかり身支度を整えている。いつもの内番衣装の白衣が少し眩しい。
薬研は布団に座ったままの私の隣に腰掛け、黒い手袋を外す。それを綺麗にふたつ揃えて脇に置いて、慣れた手つきで私の下まぶたに触れる。細く、けれどしっかりとした指がそのまま下まぶたを軽くめくる。紫の瞳がその状態を確認し、二秒ほどで指はまぶたから離れ、顎に向けてスルスルと降下する。途中指先が頬をかすめ、すすぐったい。半分寝ぼけたまま身をよじると、薬研は小さく笑った。
「大将」
言われるがまま、口を開ける。喉の奥を覗き込む様に見てから、薬研の指先は私の耳の付け根を軽く叩く。そのいつもの合図に従って、口を閉じる。薬研の手は私の髪を一度撫でてから今度は手首に移る。枕元に置かれた時計を確認しつつ、指を手首に添える。そのまま一分、私の脈を測る。
これが私と薬研の毎朝の習慣だった。
ある日突然、薬研はこれを始めた。
朝早く、許可も無く寝室に入ってきて体に触れる薬研を呆然と見つめながらその理由を聞くと、彼は真顔で答えた。
『体調管理の一環だ』
『体調管理……』
寝起きてぼんやりとした頭はまともに働かない。おうむ返ししか出来ない私に少し笑みを浮かべながら薬研は言った。
『大将が体調を崩したら大変だろ?何かあった時にすぐ気付けるように、毎日見ておいた方が良いと思ってな』
なるほど確かに。でもだからって毎日朝早くからやらなくてもいいのではないか。そもそも私は至極健康体で、幸いな事に風邪すらロクにひかない人生をこれまで送ってきた。そこまでする必要はないのではないか。寝ぼけた頭で必死にこれらの意見を伝えたけれど、薬研は悠々と受け流し去って行き、そして次の日も、そのまた次の日も、当然の様にやって来た。
寝間着のまま、顔も洗わずに彼を迎える。初めの頃はそんな姿を見られる事への恥ずかしさと、過保護にされているという落ち着かなさが有ったけれど、毎日続くうちにその気持ちも薄れていった。慣れとは恐ろしいもので、今ではすっかり抵抗も無く全てを受け入れている。
私の手首に指を添え、そこを見つめる薬研の表情は真剣そのもので、いつも以上に大人びたその顔が私は好きだった。私の手首を緩く掴むその温かさも、同じ様に好きだった。
いつもは常に手袋をしている薬研の素手に触れる機会は滅多に無い。それに薬研は他の短刀と違い、スキンシップ好きではないのでそもそも互いに触れる機会そのものがあまり多くはなかった。だから初めはその不慣れな温かさがくすぐったくて落ち着かなかったけれど、今では逆にその優しい温もりで気持ちが落ちつく様になっていた。仕事で疲れている時も、ミスをして落ち込んでいた時も、薬研の手の温かさを感じると不思議と心が落ち着いた。
「薬研の手はあったかいね」
「……え?」
ぼんやりとしたまま、殆ど無意識にそう言っていた。
突然の私の言葉に一歩遅れて反応した薬研は顔を上げてこちらを見つめた。僅かに見開いたその目は動揺した様に微かに揺れていて、驚かせてしまった事に気付いた。
「あ、いや、急に変な事言ってごめん」
「いや……それは構わんが」
「実は前から思ってて……薬研の手、あったかくて落ち着くし、なんだか気持ちいいんだ」
咄嗟に誤魔化す事も出来ず、素直に言うと薬研はそうかと小さく呟いた。そのままゆるりと、指先で私の手首を撫でる。もう片方の手で包み込むように支えられ、手全体にゆっくりと熱が伝わる。優しくて、落ち着く薬研のいつもの温もりに釣られて、眠気がぶり返してきた。薬研から隠す様に小さく欠伸をすると、彼は苦笑しながら言った。
「悪いが大将、もう一度脈測らせてくれねぇか」
「え?」
「話しかけられた拍子に数が飛んじまってな。もう一度最初から頼む」
「ご、ごめん!」
「いや、こっちこそ時間かけさせて悪いな」
言いながら、もう一度時計を確認して薬研は視線を私の手首に落した。今度こそ邪魔しない様に大人しく口を噤んで、前髪の向こうの薬研の瞳を盗み見ながら時が経つのを待つ。
彼が真剣に見つめるその先で、また柔らかな熱が宿った。
その異変は突然訪れた。
いつもの様にけたたましく鳴る目覚まし時計を手探りで止め、のろのろと布団から這い出る。あくびをしながら重い瞼を持ち上げ、そこで気付いた。目に入る景色がいつもと違う。
本来ならまだ薄暗い寝室の光景が目に入るはずなのに、今はただ、真っ白な光しか見えない。
「あれ……?」
不思議に思いながら瞼を下ろし、軽くこすり、もう一度持ち上げる。
変わらない。
「え……」
濃淡も陰影も無く、ただ淡く光る白しか見えない。首を動かし、見える範囲を変えてみてもそれは変わらなかった。手を顔の目の前に持ってきて、左右に振ってみても、何も映らない。
目が見えていないと理解が出来た瞬間、背中に冷たい感覚が走った。どうしよう。布団を握りしめ、必死に考える。
まずはこの事を誰かに伝えないといけない。真っ白な視界のまま手探りで立ち上がり、けれどすぐ布団につま先が引っかかって膝をついた。
痛みは無い。けれど息が詰まり、心臓がうるさく鳴る。じわりと嫌な汗が流れ、指先が震えた。
「どうしよう……」
震える声が漏れた瞬間、寝室の扉が開かれる音がした。
「大将……?」
薬研の声が頭の上から降ってくる。それに釣られるように顔を上げ、彼がいるであろう方向を見ても、視界は変わらず白に包まれていた。
「薬研……」
呆然と呟くと、薬研が息を呑む音と、派手な衣擦れの音が聞こえた。
薬研が正面でしゃがみこんだんだと理解するよりも先に、彼の手が私の両肩を掴んだ。
「大将、どうした」
緊張した様に硬い、けれど静かな声で聞いてくる。その耳に馴染んだ声と、肩に伝わる彼の微かな体温を感じて、少しだけ気持ちが落ち着いた。大丈夫、ひとりじゃないんだから。
ゆっくり息を吐き、そして吸う。心臓は穏やかさを取り戻し、震えも止まった。正面にいる筈の薬研に顔を向け、言う。
「目が、見えないの」
「……目が?」
肩から彼の温もりが消え、代わりに頬に移った。両手で顔を包み込むようにし、薬研は私の目をじっと観察している様だった。
「全く見えないのか?」
「うん」
「……痛みは?」
「大丈夫」
「気分が悪くは」
「平気。なってないよ」
「そうか……」
少しだけほっとした様に薬研は息を吐いた。
薬研の手から伝わる熱は、手袋をしている分いつもより弱い。それでもその優しい温度のお陰で、私の動揺は消えていった。
審神者として何をすべきかを考え、口を開く。
「薬研、みんなを広間に集めて」
薬研に手を借りながら広間に向かうと、既に集まっていたみんなに状況を説明した。当然混乱と動揺の声が上がったけれど、まずは政府に連絡し、検査を受けてみない事には何も分からないと、そう言うと、みんな言葉を飲み込んでくれた。
こんな状態では仕事もままならないので、今日の出陣と遠征は取りやめ、内番に組み込んだ面々以外は休みにするようにと伝え、その場は一先ずは解散となった。
こんのすけ経由で連絡した政府からの返事を待つ間、念のためにと石切丸に体を見てもらった。
もしこれが怨霊の類の仕業であるなら、政府よりも彼の方が頼りになる。けれど結果は空振りだった。
「力になれなくてすまないね」
「ううん、気にしないで。見てくれてありがとう」
この真っ白な世界そのものには不思議と恐怖を感じていなかったから、怨霊の類ではない事はなんとなく分かっていた。もし怨霊の様な存在がやった事なら、この白い世界に対してもっと恐怖や怯えを感じている筈なのに、そう言った気持ちは全く無かった。
淡く光るこの世界には私を傷つける意思は無いと、何故だか確信を持って思えていた。
「……現世には君が付きそうのかな、薬研」
石切丸の声が、私の後ろに立っているらしい薬研にかけられた。
「いや、歌仙の旦那が行く」
「そうかい」
二人のやり取りはそれで終わった。部屋に沈黙が落ち、少しの居心地の悪さを感じ身じろぐ。
相変わらず真っ白な視界の中では当然二人の表情は見えない。何を考えているのかも分かりにくくて、少し落ち着かない。どこか緊張した空気を感じるのは、私がこんな状況になったせいなのか、違う理由からなのか、それとも全くの勘違いなのか。いまいち判断が付かない。
どうしようかと考えていると、軽い足音と共に高い声が響いた。
「政府から連絡がありました!すぐに現世に来いとの事です!」
こんのすけのその言葉に頷くと、すぐ傍に薬研が来た気配がした。
「立てるか、大将」
「うん」
ゆっくり立ち上がると、薬研が手を掴んで誘導してくれる。手袋越しに彼の微かな温かさを感じた。
歌仙と一緒に現世に行き、まずは通常の眼科の検査を受けた。
精密検査も含め一通り終えての結論は、異常なし。
私の眼には通常の検査で見つかる様な問題は一切無く、至極健康な状態だった。それなのに見えないという事は、問題は通常の検査で見つからない所に有るという事だった。
次に行った審神者専門の研究所で私は検査結果を聞いていた。
正面に座っているらしい研究員はまずは結論を告げた。
「刀剣男士の霊力が原因だね」
それはある程度予想していた答えだった。
審神者としての仕事を始める前、一ヶ月ほどの研修期間中に様々な事を習った。
審神者としての心構えから戦い方、刀剣男士の扱い、畑での野菜の育て方まで色々な事を叩き込まれ、その中に『刀剣男士と接するうえで注意しなければならない事』も含まれていた。
曲がりなりにも神である彼らは人間の尺度では測れない事が少なからずある。そんな彼らの不興を買わない様に、悪い影響を受けない様に、出来る限り穏便な関係を築ける様に、気を付けるべき事がいくつかあった。
その中のひとつが『彼らの霊力をその体に受け過ぎない事』だった。
神である彼らの霊力を受け過ぎると、人の身を維持できなくなる事が稀にある。人の枠から外れ、神の領域に片足を突っ込んだような、中途半端な存在になってしまう。そうなった時に現れる体の変化は人それぞれで、目や髪の色が変わったり、耳が異常に良くなったり、必要な睡眠時間が酷く長くなるという例が確認されている。
私の目が見えなくなったのも、この現象だというのが研究員の出した答えだった。
「でも……」
引っかかる事が有った。
研修中に習ったこの現象が起きる条件は『二十年以上の長期にわたり刀剣男士と共に過ごす』または『刀剣男士と繰り返し肉体関係を持つ』だった筈だ。私は審神者になってまだ三年目だし、彼らと関係を持った経験も無い。
その事を伝えると、研究員は首を捻ったようだった。
「うーん……。でもデータ上はそうとしか言えないんだよね。未確認の現象かもしれないけど、その可能性は低いと思うよ」
「そうですか……」
この現象に解決方法は無い。
審神者の職を解き刀剣男士から距離を置いて治るものでもないし、治療法も見つかっていない。神の影響で変質してしまったものを元に戻す事は出来ない。それも研修で教えられた事だった。
結論が出た以上、ここで出来る事はもう無かった。歌仙に連れられ本丸に戻ると、もうすっかり夜になっていた。
次の日、みんなと今後について話し合った。
幸いな事に目が見えなくなった以外に私の体に変化は無かった。審神者として必要な力には何の影響も無く、体調の方も問題は無い。
だからこれまで通り仕事は続けられると言うと、みんなはほっとしたように笑ってくれた。
ただそうは言っても何もかもこれまで通りに、と言う訳にはいかなかった。目が見えない以上、色々な制約が生まれた。
まず私が移動する時は必ず誰かが手を引く事になった。いくら三年近く住み慣れた本丸とは言え、見えない状態でひとりで歩き回るのは危険だった。時間が経ちこの状況に慣れればひとりでの移動も出来る様にはなるだろうけど、暫くの間は必ず誰かが傍にいるべきだと、特に歌仙が強く主張した。
次に決めたのは近侍を二人体制にする事だった。目が見えない状態では政府からの書類を確認する事も、自分で記入して提出する事も難しくなる。どうしても近侍の手を借りる機会が増え、これまで通り一人だけではあまりに忙しいだろうという判断だった。
それ以外にもいくつか取り決めを作り、審神者としての業務を再開した。
そうして数週間が経ち、私も皆もこの状況に随分と慣れた。
移動する時は主に短刀が私の手を引いてくれた。見えない状態でゆっくり歩く私にとって、小柄な彼らの歩幅はバランスがとりやすくて有り難かった。
朝の身支度では歌仙、蜂須賀、乱が率先して手助けしてくれた。着替えを手伝われる事に多少の恥ずかしさは有ったけれど、見た目に気を使いセンスも良い彼らには安心して身を任せられた。
日常の生活を目が見えない状態で行う事にも慣れ、みんなのサポートのお陰で審神者としての仕事も問題無く行えている。真っ白な世界で過ごす事が、私の日常になっていった。
その間も、薬研の朝の習慣は変わらず行われた。
寝ぼけたまま薬研の手を受け入れ、彼の顔が有るであろう所を見つめる。けれどそこに有るのは、いつもと変わらず淡く光る白だけ。 薬研のあの真剣な顔を見られなくなってしまったのが寂しい。そう思いながら、手首に宿る薬研の熱を感じる。
「終ったぞ、大将」
言いながら、手を取り立たせてくれる。
移動中に手を引いてくれるから、彼の手に触れる機会は以前よりも増えた。それでも普段は手袋をしたままだから、今の様にこうして素手で触れられる事は多くない。
直接伝わる薬研の温かさをもう少し感じていたくて、離れかけていた彼の手を掴んだ。
「大将……?」
驚いたように、少し震える声で薬研が言う。
「えっ、あ……」
咄嗟に言い訳が出ず、口籠っていると薬研が苦笑したのが気配で分かった。慌てて手を離そうとしたら、緩く掴まれ指を撫でられた。
「どうした?もうすぐ歌仙の旦那が来るぞ」
指をなぞられ、そこからまた熱が伝わる。いつものその温かさに心が落ち着いたけれど、ゆっくりと動くその感覚に少しの恥ずかしさも感じる。いつもは添えるだけの指先が、今はもっと奥の方まで触れてくるようで、くすぐったい。
「大将?」
「ご、ごめん。大丈夫、なんでもない」
しどろもどろに言いながら手を引くと、薬研はあっさりと離してくれた。
「そうか。じゃあ、またあとでな」
去っていく薬研の気配を追いながら、彼が触れていた指を自分で撫でる。彼の熱がまだそこに有るような気がした。
目が見えなくなってから半年が経った頃、現世で開催された大規模な会議に参加した。
不定期で開かれるその会議では戦況の確認や新しく存在が確認された戦場の報告がされ、多くの審神者がそれぞれの近侍と共に集まる。
私も大倶利伽羅を連れ、いつもの様に会議室に座っていた。
長々と続く会議も中盤に差し掛かった頃、軽く頭痛がしている事に気付いた。
薬を飲むほどでもない痛みだったので、久々の人ごみに酔ったのかなと思いながらそのまま無視した。けれど頭痛は一向に引かず、それどころか徐々に痛みを増していった。頭を揺さぶられるような痛みに、小さく声が漏れる。
「おい、どうした」
異変に気付いた大倶利伽羅が小さく声をかける。その袖口を手探りで掴み、伝える。
「なんか……頭痛くて………。一度外に出て良い…?」
大倶利伽羅はすぐに荷物を纏め、私の手を引いて会議室を後にした。
その間も頭は激しく軋み、息が上がる。内蔵を圧迫されるような気持ち悪さまで感じだし、足が止まる。
「おい」
慌てた様な大倶利伽羅の声が聞こえる。大丈夫だと言いたいのに、頭が揺れて上手く口が開けない。足に力が入らなくなり、崩れかけた所を大倶利伽羅に支えられた。
人が集まってくる足音が聞こえる。その内の誰かが大倶利伽羅に声をかけ、何か指示をしている様だったけれど、もうよく聞こえない。
大倶利伽羅に抱えられたまま、私は意識を手放した。
目を覚ますと、そこには見慣れた白い世界があった。
何度か瞬きをし、それでも変わらない白を眺めながら考える。何が起きたんだっけ。
「気が付いたかい」
歌仙の声だった。
彼がいるであろう方に顔を向けると、歌仙がほっと息をついたのが分かった。
「もう具合は大丈夫かな」
「だいじょうぶ……」
ぼんやりと呟きながら、思い出す。会議の場で具合が悪くなり、倒れた事を。
頭が割れるような痛みはもうすっかり治まり、気持ちの悪さも同じ様に消えていた。喉が乾燥して少し痛んだけれど、それ以外に気になる事は無かった。
体を起こそうとすると、歌仙が手を貸してくれた。
「何が有ったか、覚えているかな」
「うん……どのくらい寝てたの?」
「まだ二時間程しか経っていないよ」
「……大倶利伽羅は?」
「ここにいる」
歌仙の対面から聞こえた声に振り向く。無口な彼はその気配も静かで、様子を窺うのは難しい。
「迷惑かけてごめんね」
「……構わない」
ぶっきら棒に言うと、彼はそのまま口を噤んだ。代わりに歌仙が口を開く。
「倒れたきみはそのまま政府の施設で検査を受けた。結論から言うと、君の眼を見えなくしたものと原因は同じらしい」
刀剣男士の霊力が体に入り込んだ影響で、私の体は人でも神でもない中途半端な状態になっている。大倶利伽羅が研究員から聞いたところによると、私の体に混じっている霊力は半年前よりも増えているらしい。
人の枠から外れ、かといって神にもなれない私の様な中途半端で危うい存在は、環境の変化に対応できなくなる事が有る。
現世に行き数時間で体調を崩し、研究所で出来うる処置をしても状況は変わらず、けれど本丸に戻るとすぐに治まった。つまり私の体はこの本丸にしか馴染めず、現世に居続ける事が難しくなっているのではないかと、歌仙は言った。
「これは僕の推測でしかないけれどね」
私の頭を撫でながら歌仙は続ける。
「明日、政府の人間がここに来るそうだ。詳しい事は彼らに聞くと良い」
「……うん、分かった」
頷くと、歌仙は大倶利伽羅と共に部屋を後にした。
現世に行く事がもう出来ないかもしれないと知っても、どうしてかショックは受けなかった。家族や友達に会う事も出来なくなるかもしれないのに、その事を自然に受け入れた自分を不思議に思いながら、淡く光る白い景色を眺めていた。
次の日、政府の研究員が上司と共に本丸にやって来て私の状態について説明した。殆ど歌仙の推測通りの内容で、彼らがつらつらと語る言葉をぼんやりと聞いていた。
私の体は本丸にしか馴染めなくなったけれど、それでも審神者としてやっていく分には何の問題も無いらしい。むしろ現世に戻る事の方が、今の私の身体には負担が大きく危険との事だった。
あの激しい頭痛と気分の悪さを思い出す。現世にいる限りあの症状から逃れられないというのは、確かに耐えられない。
彼らは私に異議が無いのであれば、このまま審神者を続けてほしいと、そう続けた。異議なんて有る訳がない。迷わず頷くと、彼らは安堵の息を漏らした。
いくつかの細かい取り決めをした後、彼らは足早に去っていった。
それから暫く、私は大きな変化の無い日常を過ごしている。
刀剣男士と共に生活し、彼らの戦いの指揮をとり、新しい刀剣男士が確認されれば鍛刀や出陣で彼らを迎え、戦力を増やす。そう言った日々をのんびりと過ごしている。
「大将」
薬研は変わらず毎朝やってくる。
目に触れ、顎に触れ、手首に触れる彼の温もりを受け入れる。そうして一日を始め、本丸のみで完結する日常を過ごしている。
**
ゆるりと意識が覚醒する感覚に従い、瞼を持ち上げ、最初に目に入ったのは淡い光だった。
自分を包み込むようなその光がゆっくりと消えた向こうに、彼女はいた。
「あ……」
小さく呟き、こちらをじっと見つめる小柄な女。
彼女が自分の今度の主だと、刀剣男士として目覚めた本能で理解した。
「よぉ大将。俺っち、薬研藤四郎だ」
そう名乗ると、彼女はほっとしたように顔をほころばせた。そしてこちらの手を取り、こう言った。
「初めまして、薬研。これからよろしくね」
握られた手から、彼女の熱が伝わってくる。人の身がこんなにも温かいものだと、この時初めて知った。
緩く絡められた細く華奢な指から伝わるその温もりは酷く心地が良く、この頼りなくも見える主を何が有っても守らなければならないと、そう思った。それが、薬研藤四郎として目覚めて最初に抱いた感情だった。
――それを知ったのは、言ってしまえば大将の迂闊さがきっかけだった。
「本?」
「あぁ、知識は多いに越した事はねぇしな。何か借りられるものは有るか?」
そう言うと、大将は納得したように頷きながら書類が散らばる机をかき分けた。
審神者になってまだひと月足らずのこの頃、大将の机は酷く乱雑としていた。戦闘の指南が載った本や、政府からの通達の書類に、彼女自身が書きまとめたメモが幾層にも重なっていた。
雅さを重視する歌仙はこの状態にたまに苦言を呈していたが、大将が必死に頑張っている証だという事が分かっている為、強くは言えないでいた。俺を含めた他の面々もその気持ちは同じで、その結果大将の机は日々その嵩を増していっていた。
「じゃあ……この辺かな」
書類の山から引き抜かれた本が数冊、手に乗せられた。
「薬学とか怪我の応急処置の仕方が載ってるの。あとそっちは栄養学だったかな」
これでいい?と聞きながら首を傾げる。それに礼を返すと、大将は笑みを浮かべてから机仕事に戻っていった。
自室に戻りわたされた本を確認していると、一冊おかしなものが紛れているのに気付いた。他のものより半分ほどの薄さのその本は、表紙に研修教材と書かれていた。
大将が審神者としてこの本丸に来る前、現世で研修を受けたという話は既に聞いていた。だからこれがその時に使われた物だという事はすぐに分かった。しっかりと読みこんだ跡が分かるその表紙を見つめながら、つい好奇心が疼いた。大将が何を学んできたのか、知りたいと思ってしまった。
そのまま誘惑に負け、表紙を捲る。小さな文字が敷き詰められたそこには、刀剣男士について、審神者と言う役職について、霊力を扱う事について、様々な事が記されている様だった。
ただざっと目を通した限り、自分が知らない知識は無いようだった。載っているのはどれも基本的な事で、刀剣男士として目覚める際に既に得ていた知識とそう変わりが無かった。
少し残念に思いながらページを捲り続け、けれどある部分で手が止まった。
刀剣男士と接する際の注意事項と見出しが付いたその頁には、自分が把握してない情報が載っていた。
その中のひとつが『刀剣男士の霊力をその体に受け過ぎない様にする』だった。
曰く、刀剣男士と長年共に過ごすか、或いはその誰かと繰り返し肉体関係を持つと人であるはずの審神者の体が変質し、神でも人でもない半端な存在になる事が稀にある。
そんな知識は持っていなかったが、ただ原理は理解出来た。仮にも神の端くれである刀剣男士の霊力には多少なりとも人の身に影響を与えられる程度の力は宿っている。そんな存在と長年共に居続ければ、刀剣男士の意思に関わらず次第に霊力に浸食され、何かしらの影響が出てもおかしくはない。性的な関係を持つ事でその影響が早期に出るのも、また納得のいく事だった。
性的な関係を持つという事は、つまりは相手に欲を吐き出すという事だ。刀剣男士の体から直接生じたものには、特に強い霊力が宿る。繰り返しその身に欲を受け続ければ、数十年共に過ごしたのと同じ程度の影響が出る事は理解が出来た。
そしてそれが進行すると、現世で過ごす事が出来なくなる程不安定な状態になる可能性も有る。十分に注意せよと、教材では纏められていた。
「なるほどな……」
一人呟き、本を閉じる。
知らなかった知識に触れられた事は良かったが、だがこれは刀剣男士である自分が得て良い情報ではない事は明白だった。刀剣男士と接する際の注意事項を、当の刀剣男士に知られても良いとは当然教えられないだろう。
であるなら、つまりこの本は刀剣男士の目に触れてはならないもので、それを自分の手で俺に渡してしまった大将の行動は、迂闊としか言えないものだった。
だが書類で溢れる大将の机を思うと、その迂闊さを責める気にはなれなかった。
薬学や栄養学の本の間に入ってしまったこの教材に気付かず俺に渡してしまったと知れば、大将は慌てるだろうか。落ち込むだろうか。そう考えると申し訳なさが募り、大将がいない隙にこの教材をこっそり机に戻して置く事にし、見てしまったその内容は一度忘れる事に決めた。
それから一ヶ月ほどが過ぎ、大将は審神者としての仕事に大分慣れ、随分と余裕を持って仕事が出来るようになっていた。
大将の落ち着きと比例するように机の上も整理がされていき、今では必要なもの以外はきちんと所定の棚に仕舞われていた。
八つ時の休憩をする大将の周りには内番を終え手持無沙汰になった兄弟が集まっている。そうやってじゃれ付く彼らの相手をする事で、大将が気を休めているのは分かっているので余計な邪魔はせず、少し離れたところでその様子を眺めていた。
そんな時不意に、乱が言った。
「ねぇ、主さんはずっとここにいてくれるんだよね?」
何がきっかけでそんな事を聞いたのかは分からないが、だがその唐突な乱の問いに身がすくんだ。大将はこの本丸にずっといるものだと、完全に信じ切っていた自分に気付き、僅かに息が詰まる。
「本丸の維持が出来なくなると審神者も刀剣男士も危ないからね。何か危険が及ぶ前に解体することはあるよ。それに私達審神者は政府に仕えてるような存在だからねぇ。嫌だって言っても、基本的に命令には逆らえないから」
幾らかのやり取りの後に告げられた大将の言葉にまた体が震えた。
審神者である大将にとって政府は主の様な存在で、その命令には従うしかない。その事実を、俺はこの時改めて認識していた。
俺達刀剣男士が審神者の命令には従う様に、大将も政府の命令には従うしかない。仮にそれが俺達との関係を断つ事だったとしてもだ。
大将は俺達の、俺の、主だ。刀剣男士としての生を与えてくれた、守るべき存在で、俺達は彼女の為に戦っている。人と同じ身を得て、感情を得た今、その繋がりを断つ事は受け入れられない。
「薬研、どうかした?」
半ば無意識のうちに手を握り締め、俯いていると、大将がいぶかしげな顔をしていた。慌てて取り繕い、兄弟たちに声をかけ退出させ、大将の意識を仕事に戻した。
真面目な顔で机に向かう大将は既に俺の様子は気にしていなかった。それを見つめながら、あの教材に書かれていた事を思い出していた。
「おはよう、大将」
寝起きのまま呆然とこちらを見上げる大将に、思わず苦笑が漏れる。
大将の寝起きがあまり良くない事は知っていた。だからこそ、勢いそのままに押し切った。
あの日以来彼女に霊力を送るためには何をすればいいかを考えていた。
あの教材に載っていた事は実行できない。まず数十年も悠長に待つ余裕は無かったし、かと言って関係を持つという事も出来ない。無理に事に及ぼうと思えば出来ただろうが、何度も繰り返す必要が有る事を考えると大将の心身にかかる負担が大きすぎ、とてもその道は選べなかった。
ではどうするか。考えあぐねた結果思いついたのが、これだった。
体調の確認方法は大将に渡された本に載っていたものだった。それを見よう見真似でやりながら、彼女の細い手首を捕まえる。
本来の目的はこれだった。脈を測りながら、指先から霊力を送る。そこから血液と同じ様に、全身に霊力が流れる。大将に気付かれない様ほんの僅かな量に抑える為、慎重に行った。
初めの頃は突然の俺の行動に狼狽え、抵抗も見せていたけれど、すぐに大将はそれを受け入れた。毎朝やってくる俺を当然の様に迎え、自分に触れさせる。俺が何をやっているのかは全く気付いていない様で、安堵した。
けれどある時、大将はぽつりと言った。
「薬研の手はあったかいね」
霊力は独特な気配を持つ。それに大将が気付いたのかと思い、つい震える様な声が漏れた。
「実は前から思ってて……薬研の手、あったかくて落ち着くし、なんだか気持ちいいんだ」
微睡みながらそう言い、大将は笑みを浮かべた。
霊力ではなく、ただの体温と混同していると思ってると分かり緊張が抜けた。そのまま大将の手を取り、ゆっくりと撫でる。手全体を包むようにしながら、霊力を送ってみる。手首以外から送るのは初めてだったが、大将は特に違和感を持つ事も無く、身を委ねてきた。
その時から、自分の行動が彼女には気付かれる事は無いと、ひとつの余裕が生まれた。
そんな中、初めに俺の行動に気付いたのは三日月宗近だった。
じじいを自称する彼は朝起きるのも早く、大将の寝室に向かう時に出くわす事も多かった。
その度軽く挨拶をし、けれど特に引き止める事もしなかった三日月だったが、その日は違った。
「愉快な事をしているな、薬研」
言われ、振り返ると三日月はいつもと同じ様に穏やかな笑みを浮かべていた。
「何の事だ?旦那」
そう返しても、その表情に変化は無い。
年嵩なその男は常に余裕を携え、滅多に表情を崩さない。誤魔化そうとするこちらを気にもせず、言った。
「なに、俺もあの主は気に入っている。よい事だ」
そのまま去っていく背中を見つめる。こちらの反応など関係無くただ自分の言いたい事を口にした三日月は、いつから自分の行動に気付いていたのか。今日まで一切その素振りは見えなかったため分からないが、だが彼が自分の邪魔をする意思が無いという事は理解出来た。むしろ好意的に、面白がって見ている様だった。
そうであるなら三日月が大将に何かを告げる事もないだろうと判断し、そのまま彼女の寝室へと足を進めた。
次に気付いたのは石切丸だったが、これは予想が付いた事だった。
「いつからやっていたんだい?」
大将の目が見えなくなったその日、歌仙と共に現世に向かう背中を見送ると、石切丸はそう声をかけてきた。
彼は先ほど、大将の体を視た。御神体として名高く人の身を視る事に長けた彼が、大将の体に混じる俺の霊力に気付かない訳がなかった。
「半年ほど前からだな」
素直に答えると、石切丸は一瞬目を見張り、けれどすぐにゆるりと微笑んだ。
「それはまた、大層な事だね」
「そうか?」
「ああ。正直、感心するよ。当然主は気付いていないんだろう?」
「そうだな」
「言う気もないね?」
「勿論」
言い切ると、石切丸はそうかいと静かに呟いた。そしてそのまま自室へと戻り、俺は玄関に一人残された。
霊力を送る事で大将の身にどんな変化が起きるかは分からなかった。例の教材には髪や目の色、体質が大きく変わると書かれていたが、視力を失うという記述は無かった。布団の上で呆然とし、視線が定まらない顔をこちらに向ける大将の姿を見た時は一瞬体がすくんだが、けれど痛みや気分の不良は無いと分かると、自分の計画が上手くいっている事の喜びが勝った。
それからは他の面々も徐々に大将の変化の原因に気付いていき、中には直接俺に声をかける者もいたが、咎められる事は一度も無かった。一部難色を示す者もいたが、その理由は自分のものでなく俺の霊力が大将の身に馴染んだ事が面白くないからであって、大将の体に変化が起きた事自体に対してではなかった。むしろ僅かとは言え大将の身が神のそれに近づいた事に喜びを示す者もいた。
短刀を初めとした世話焼きの連中が常に大将の側に付き、移動の際は彼女の手を取った。当然俺も、手が空いている時や近侍として傍にいる時は同じ様にした。そしてそうしながら、そっと彼女に霊力を送り続けた。
大将は相変わらずそれに気付く事は無く、ただ薬研の手はやっぱり温かいねと、度々言っては頬を緩めていた。
大将が現世の会議で倒れた頃には本丸の全員が俺の行動に気付いていたが、誰もその事を大将に告げる事はしなかった。俺がそうするように頼んだわけではないが、暗黙の了解として誰も口にしなかったし、大将も自分の体に誰の霊力が入っているのか、不思議と気にしていない様だった。
倒れた翌日に説明に来た政府の人間を見送ると、大将はみんなを集め自分の状態を軽く説明し、最後にこう言った。
「こんな感じだけど審神者としては問題無くやっていけるから、これからもよろしくね」
そう微笑む大将を見ながら、現世から隔絶されたこの本丸と言う空間に彼女を留めておく事が出来た事実を噛みしめていた。
縁側に座り庭の方を向く大将の肌は作り物の様に白い。血がきちんと通っているのか疑いたくなるほどの白さになったのは、四年ほど前の事だった。
徐々に色が変わっていったその理由は、俺の霊力が更に大将の体を侵食していったからだった。
体調管理だと言って初めて霊力を送ったあの日から、もうすぐ十年が過ぎようとしていた。
俺は毎朝変わらぬ習慣として彼女に霊力を送り続け、また移動の時など体に触れる機会が有ればその時もそっと送っていた。当然それだけ大将の体には俺の霊力が溜まって行き、彼女の体に更なる変化を引き起こしていた。
そのひとつが、肌の白さだった。陶器で出来た人形の様なその白さは彼女が更に人の枠から離れたことを表している様で、つまりは現世からもまた遠ざかったという事で、俺にとっては喜ばしい事だった。
もうひとつの変化は体全体に現れた。加齢をしなくなったのだ。
この本丸に審神者としてやって来た時、大将は二十そこそこの年頃だった。そこから約十年が経った今、彼女はあの時と比べてほとんど年を重ねていない。
いくら若々しい見た目を維持していたとしても十年も経てば変化が有って当然だったが、大将は俺達刀剣男士と同じ様にその見た目に年を重ねていなかった。
石切丸の見立てによれば、これも俺の霊力が影響した事らしい。今の大将は時間の干渉も受けない体になっていた。
「大将」
声をかけると、ゆっくりとこちらに顔を向ける。
「薬研」
名を呼ぶ大将の隣にしゃがみ、膝に置かれた手を握る。そこから僅かに霊力を送ると、大将は嬉しそうに微笑んだ。そして弓なりになったその瞳は、金の色をしていた。
この変化はつい最近起きたものだった。 元々濃い茶色だった大将の瞳はその色を少しずつ変えていき、最終的に金色に変わった。
それを確認した三日月は僅かに笑いながら「ついに人ならざる者になったな」と俺の耳元で囁いた。
今日は半年に一度の検診として、政府の人間がやってくる日だった。
大将は自分の身に溜まった霊力が増えている事、そして体に起きた変化を検診の度に彼らから聞かされているが、その反応はいつも乏しいものだった。
当然の様に受け入れ、あまり気にしていない様に俺には見えていた。
いつだか石切丸が言っていた言葉を思い出す。神である刀剣男士の霊力が大将の意識にも影響を与え、現世で培った価値観も崩しているのかもしれないと、彼はそう言っていた。
あくまで推測だがねと石切丸は付け足したが、俺はその考えは正しいのではないかと思っていた。そしてそれを、好ましい事だとも考えている。現世への未練や体の変化への不安を感じ、大将が傷付くのを避けられるのは願ったりだった。
「行こうぜ、大将」
もうすぐやってくる筈の政府の人間を迎える為、大将の手を取り立ち上がらせる。
細い指を絡め取る様にしながら、ゆっくりと霊力を送る。今の大将の体は一瞬であっても現世に留まる事に耐えられない。政府はこの本丸から出る事が出来ない彼女を人の世に戻す事は諦め、審神者として使い続ける事を選んだ。彼女は永遠に俺達の主であり続ける。
その身を縛りつけた俺の手を取りながら、大将は淡く微笑んでいる。