撫子の光





「あ、気が付いた?」

ぼんやりとした視界の中、彼女は柔らかく微笑んだ。ふわふわと不明瞭な意識の中で、必死に記憶を手繰る僕の額にランが手をかざす。普段は温かく感じられるそれが酷く冷たく思えた瞬間、僕は自分に何が起きたのかを思い出した。

「うーん……まだ熱は下がらないね……」
「ラ、ン……」
「大丈夫だよ、ニケ。お水飲む?」

ランに手伝ってもらいながら、重たい体を少し起こす。手渡された水を口に運ぶと、その冷たさで少し意識がはっきりとしてきた。
体調があまり良くないという感覚は数日前から有った。けれどこの程度のものは大丈夫だろうと、過去の経験からそう判断していたのに、僕の体はあっさりと負けた。一気に熱が上がり、動くのもままならなくなってランにベッドに押し込まれたのが昨夜の事。
宿の窓から見える空は茜色に染まっている。夕方になるまで寝続けるなんてと驚きかけて、気付く。もしかしたらもっと長い事、何日も寝ていたのかもしれないと。

「大丈夫、まだ一日しか経ってないよ」

二杯目の水をコップに注ぎながら、ランが言った。

「でも全然目を覚まさないから、心配しちゃった」
「ごめ……」
「ううん。こればっかりは仕方がないもん。疲れてたんだよ、きっと」

そう言ってランは微笑んだけれど、僕にとってこれは有り得ない事だった。
ギルドの中では体調を崩してもそのまま放置される。死んでも誰も気にかけない。だからこそ病や薬草の知識を必死で身に着け生きてきたし、毒に馴染んだ僕の体は風邪をひきにくいものにもなっていた。
ニルヴァーナを離れる直前の様に、大怪我を負ったからこその発熱はまだしも、ただ単純に風邪をひいて倒れるなんて有り得ない筈の事だ。

「宿の女将さんにね、滞在期間延ばす様にお願いしておいたよ。あと薬屋さんにも行ってね、この街で今流行ってる風邪に聞くお薬買ってきたけど、飲む前には何か食べないといけないんだけど……どう、食べられそう?」

まだ少しぼんやりとしたままの僕の顔を覗き込んでランは言う。ランの明るい髪に夕日が当たり、なんだかとても眩しく見える。

「うん……大丈夫」
「良かったぁ。リゾット作っておいたの。温めるから少し待ってね」

キッチンに向かうランの姿をぼんやりと眺める。そう言えば、旅に出てまだ間もない頃、ランが体調を崩した事が有った。あの時とは逆の立場になってしまった今のこの状況が、少し情けない。

「熱過ぎるのも良くないし、このくらいで良いかな」
「ありがとう、ラン」

牛乳で煮詰められたリゾットを口にすると、ランはほっとした様に小さく息をついた。ベッド横の椅子に腰かけると、手にしていた包みを開く。

「本当はね、ニケの持っている薬が良いかなと思ったんだけど、女将さんが風土病かもしれないからって言って。この薬を買ってきたんだけど……どうする?やっぱり自分の薬を飲む?」
「ううん、それで良いよ」
「うん、分かった。それと……リゾット、味は大丈夫かな……」
「大丈夫、美味しいよ。ありがとう、ラン」

熱のせいか味覚も覚束ない所が有ったけれど、ランの作ってくれたリゾットは確かに美味しい。優しくて、温かみのある、そんな味がする。用意してもらった分を食べ終え、手渡された薬を水と共に流し込む。初めての味がした。どんな薬草を使い、どんな調合をしているのか、熱が下がったら調べておいた方が良いかもしれない。本当に風土病であるなら、ランもかかる可能性が有るのだから。

「このままもう一度寝た方が良いよね」
「……ラン」
「なぁに?」
「ごめん、迷惑をかけて……」

言うと、ランは一瞬きょとんとした顔をしてから微笑んだ。

「迷惑だなんて思ってないよ。心配はしたけどね?でもこういう事はお互い様だもの」

そう言いながら、僕の体をベッドに沈め、布団をかけ直す。

「とにかく今はゆっくり休む事。こういう時どうしたら良いのかはニケの方が良く分かっているでしょ?」
「う、うん……」

そのまま瞼を下す。熱でぼんやりとした頭は、すぐに意識を手放しかける。けれどランが立ち上がる音がした瞬間に心が震え、思わず口が開いた。

「ラン……」
「ん、なぁに?」

顔を覗きこまれ、続きを躊躇う。けれど名前を呼んだ以上、黙りつづける訳にもいかない。ランの藍色の瞳からそっと視線を逸らしつつ続ける。

「もう少し……そばに、いて……」

自分でも情けなく思える程、小さくて掠れた声だった。
恥ずかしさからランを見れずにいると、椅子を再び引く音が響いた。そしてそのまま、布団の中に入ってきたランの細い手が僕の手を掴まえた。

「良いよ。ニケが眠るまで、ここにいる」

優しく囁かれ、つい吐息がこぼれた。
体調を崩して誰かに看病してもらう事も、心配をしてもらう事も、傍にいてもらう事も初めてで。そして一人になる事への心細さを実感したのも初めてだった。こんなにも心が頼りなくなるなんて、思ってもいなかった。
ランの小さな手を握り返す。彼女の手は温かくて、柔らかい。触れていると心が落ち着いた。

「ありがとう、ラン……」

おやすみなさいと微笑んだランの温もりを感じたまま、緩やかな眠りに落ちていった。