心を残して大人になった





どこか、平和なところで無事に暮らしていると信じていた
いや、信じていたと言うのは少し違う
俺と同じ目に遭ったあいつが平穏な場所に行けたと思うには無理があった。実際、あいつを追った自分の状況を考えれば当然だ。運良く見つけてもらえたから良かったものの、あのまま森を彷徨っていたら確実に死んでいた。体力を取り戻し、現状の把握は出来ても、あいつの行方を調べる術は無かった
無事でいると信じていたのではない。無事でいるはずだと、思い込んでいた
そう思わなければ、不安に押しつぶされそうだった





極力音を立てない様にしてあいつが部屋を出たのを確認して、溜め息が漏れる
常に軒猿が警護に着いていると何度説明してもあいつは慣れない。急に俺達が現れた事に決まって驚く。多分今も誰もいないと思ったか、あるいはいても気付かれないと思ったんだろう
ここでの夜道は灯りも無く危険だし、そもそもあいつはどうしてか道鬼斎に目を付けられている。ひとりで抜け出すなんざ、警戒心が無いどころの話ではない
土と葉を踏む小さな音を暗闇にまぎれながら追う



やはりと言うかなんと言うか、あいつはあの泉に来ていた
ここはお館様が大事にしている場所だし、俺達軒猿を含めて下の人間はあまり気軽には入ってはこない。あいつは唯一の例外と言って良い。時たまひとりでふらふらとここに来ているのを、軒猿は皆知っている
泉の縁に座り込み、指先を水面に付けているらしい。背を向けているから、こちらからは表情は分からない
泉に入り帰りたいと泣いていた時の様な激しさは今は見えない。ただ静かに、水に触れている
七夕の時、あいつは帰りたいと言った。当然の感情だ。けれどそれが難しいと言う事は俺が一番良く分かっている。どうしたら帰れるかなんて、まるで分からない

「おい」
「雅刀…」

声をかけると、さして驚いた様子も見せずに振り返った。その表情は凪の様で、少しくらい悲嘆してるかもしれないと思っていたから拍子抜けした

「ひとりで何してる。戻るぞ」
「危ないから?」
「…分かってるならふらふら出歩くな」
「うん。でも誰か来てくれるだろうなって思ってたから」

そう言って笑うと、すっと立ち上がって指先についた水を払った
誰かしら軒猿が追うと言う事が分かっていたのにこんな時間にここに来たのか。ひとりになりたかったんじゃないのか
昼間ならひとりでここに来ても軒猿は声をかけない。明るい時間帯なら多少離れていても警護に問題は無いからだ。だが夜は別だ。暗闇だと位置をはっきりと認識しづらくなるし、敵が隠れるにも良い環境になる。だから早い段階で声をかける。そのくらい、経験上分かっているはずだ

「…戻るぞ」
「うん」

考えても埒が明かない
今の俺はこいつの考えを理解できないことも少なくはない。色々と、離れている
邸に向かって歩き出すと、後ろを小走りで着いてくる音が聞こえる。その音に、少しだけ安心する。昔はこんな事は無かった。隣を歩くか、少し後ろを歩くのが常だった
生ぬるい風がじんわりと体に纏わりついて気持ちが悪い
そんな感覚を纏った手を、少し冷たい指が掴んだ

「っ…おい」
「だ、だって暗いんだもんっ」

すぐにそう返すその頬は微かに染まっている。暗闇だから普通ははっきりとは分からないけれど、でも軒猿は夜目が利くように訓練をしている
拗ねたように掴んだ手を見る姿に思わず何も言えなくなり、正面に向き直りそのまま歩きだす。遅れて少し安心した様な気配を感じる。こいつは昔から感情が表に出やすい
その気配に気づかないふりをして目の前の闇を睨むように見る。人の声も動物の鳴き声も聞こえないこの時間はやけに風の音が響く

「あのね…」
「…なんだ」
「雅刀来るかなって、ちょっとだけ思ってた」
「………そうか」
「うん。だから良かった」

どう返事をしたら良いのか分からず、押し黙る
当の本人はその事を気にしていないらしい事に内心ほっとした自分に気付いて僅かに苛立つ

「……帰りたいか」
「うん?」
「もといた場所に」
「んー…」

てっきり即答するかと思っていたから考え込むような反応に少しだけ驚く
あれだけ帰りたいと言っていたし、俺自身その気持ちは良く分かっているつもりだ

「帰りたいよ。そりゃあね。でも…でももし私がここに来た事に理由があるなら、その事を果たしたいなって」
「理由…?」
「どうして私なのかなんて分からないよ。たまたまかもしれないし。でももし何か有るなら…それをやってから帰っても良いかなって」
「……そうか」

どうしてそう思うようになったのかは知らないが、恐らく良い事なんだろう
ここで生きる理由や術を早いうちに見つけておくのは悪い事ではない。そうすればいつまで経っても戻れる気配が無い事に嘆く事も少なくなる
それ以上は互いに何も話さず、ただ無言で歩いていた。纏わりつく様な空気は相変わらず不快だが、気分が重く沈む事はない




邸に着くとすんなりと手を解放された

「…さっさと寝ろよ」
「はーい」

素直に返事をすると、草履を脱いで邸に上がる。そのまま大人しく部屋に戻るのかと思ったら振り返り、俺の顔をじっと見る

「雅刀」
「…なんだ」
「おやすみ」
「……ああ」

満足したのか、ひとつ笑うと今度こそ部屋へと戻った。その足取りは妙に軽くて、変な感覚に襲われる

「暑い…」

蒸し暑いのは嫌いだ。軒猿としての訓練を受けているから大抵の暑さ寒さには耐えられる体だが、このじめじめとした感覚は話が別だ。纏わりつくこの感じはどうにも好きにはなれない
あいつを初めてここで見た時、どうしてここにいるのかと驚いたと同時に酷く安心した自分がいた。話を聞く限り、どうしてかは分からないがあいつはここに来たばかりだった。まだ自分の状況すらまともに把握できていなかったが、どこか怪我を負ったり体力的に弱っていたりはしていなかった。その上毘沙門天の遣いだとか言う仰々しい立場を与えられ、生活にも特に不自由はない。慣れない事は多くと戸惑ってはいただろうが、随分良い環境だ
俺の事も全く覚えていなかった。当然だ。こちらははっきりと覚えているが、俺は15年分の年を取った。あいつが気付くはずもない。だが、それで良い
俺が雅人だと言う事をあいつが知る利点なんざ有りはしない。今更何とも思っていないが、あの時俺の身に起きた事を知れば驚くだろうし、同情もするだろう。そんな必要はない
ただ今はあいつがいつか現代に戻るまで守りきることだけを考えれば良い。あいつは俺が誰かなんて知らずに無事過ごしてればそれで良い
それで、充分だ

「真奈…」

ふと口の中で小さく呟いた声は闇に紛れる事も無く掻き消えた

title by ユグドラシル