プロローグ





東京は遠いけれど、でも行けない距離ではない
電車で2時間と少し。時間も交通費もかかるけれど、でも無理だというほどではない
そう。行こうと思えば簡単に行ける場所のはずだ
けれど私にはそれが出来なかった

行って、会いたい人は何人かいる。その人たちと色々な事を話もしたい
でも誰よりも会いたいと強く願う彼の元に気軽に行くことはとても出来なかった
私の事なんてもうどうでも良くなってしまっていたら?
彼の周りには多分今も、女の子たちが沢山いる。それもただの女の子ではない。彼に好意を持った女の子たちだ。そんな子達と過ごしている内に、私の存在が彼の心から消え去っていたっておかしくはない
それよりも、もし彼に嫌われてしまっていたら?
私は彼に酷い事をしてしまった。綺麗な別れ方とはとても言えない
最後の日、駅のホームで、彼はとても優しかった。けれどもし本心が違っていたとしたら。私に対して苛立ちを抱いていたとしたら。その可能性がゼロだとは、私には言えない

けれどずっと、本当はずっと、会いたくて仕方がなかった
寂しくて不安で、押しつぶされそうだった
ずっと何かのきっかけを探していた。二の足を踏む弱虫な私の背中を押してくれる何かを




「天体観測?」

マスターは人の良い笑顔を浮かべて私に言う
70近いマスターが切り盛りする小さな喫茶店。ここが私の新しいバイト先だった

「そう。ちょっと寒いし遠いけど人も少ない穴場だよ。この時期はとても綺麗に見えるんだ。きっと驚くよ」

言いながら、サイフォンの中をひとかきする
お店の中にはコーヒーの香りが充満していて、酷く心地が良い

「僕も昔は家内とよく行ったなぁ」

マスターの奥さんは3年前に亡くなっている
けれどマスターは度々こうして奥さんとの事を私に教えてくれる
奥さんの事を話す時のマスターの表情はとても柔らかで、優しくて。会う事すら叶わなかった奥さんがうらやましく思えるほどだった

「あとで場所教えてあげるね」

だから彼氏と行っておいで
そう、眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めるマスターに私はただ曖昧に頷くしかできなかった

家に帰って、熱めのお風呂につかりながら考えてみる
これがそのきっかけになるかもしれない
今を逃したら、もしかしたらもう一生踏み出せないかもしれない。そう思った

塗れた頭をタオルで適当に纏めて、ベッドに放置してあった携帯を拾い上げる
でもどうしよう。一体どんな風に送ればいい?
正しいと思える言葉が一向に浮かばず、携帯を握りしめる手に力がこもる
湯冷めするまで散々迷ってようやく送れたメールはとても簡素な内容だった
大した事はしていない筈なのに、なんだか酷く疲れた気分に陥った
色々なものを吐き出すようにため息をひとつついてから、髪の毛を乾かすために洗面所に戻る。頭はすっかり冷え切ってしまっていて、髪に差し込んだ指が冷たさに一瞬震えた

髪の毛を乾かし終わって一息ついてから部屋に戻ると、ベッドの上で携帯が光っていた
そのライトを見た瞬間、心臓が跳ねるように鳴った
こんなすぐに返信が来るなんて。どうしようと迷い、パジャマの裾を握りしめる
でももしかしたら彼ではないかもしれない。友達がこのタイミングで他愛のないメールを送ってくる事だって当然あり得る。けれどどうしても期待してしまう。彼だったら良いのに。そう願ってしまう
震える指先で覚束なくケータイを開き、新着メールの発信者を確認する

「あ……」

見慣れた名前。間違え様が無い名前
彼だ

意識した瞬間、一気にのどが渇いた。カラカラのまま掠れた息が漏れる
大きく息を吸って、吐く
表面上だけでも良いから自分を落ち着かせて、ようやくメールを開く
彼からのメールも同じ様に簡素な内容だった。簡素だけれど、でも決定的だった。その言葉を見て、意味を飲み込み、吸い込んで
液晶にぱたりと雫が落ちた









駅で彼は一際目立っていた
ただでさえ派手なファッションに、サングラスをかけていてもそうと分かる程整った顔立ち
行き交う女性が遠慮がちに彼を気にしているのがよく分かった

なんにも変わっていない
どこにいても、何をしていても、彼は彼だった
その事実に少しほっとした

「やぁ、久しぶり」

彼はゆったりとこちらに近づくと、同じ様に穏やかな口調でそう言った
まるで数日前にも会った様に、酷く自然に

「……はい、お久しぶりです」

少し間が開いてしまったけれど、それでもどうにか彼と同じ様に答える自分の声は少し掠れていた
緊張と、不安と、嬉しさと。色々な気持ちがない交ぜになって、泣きたいくらいだった
でもそれを必死にこらえる。泣いてしまうなんてみっともないし、彼に対しても申し訳がなかった。せめて今だけでもちゃんとしていたかった
彼に気付かれないようにそっと息を吸い、吐く。心が少しでも凪ぐ様に

「行きましょう。こっちです」

笑顔を引っ張り出して彼を導く
短くは無い電車移動に疲れているだろうに、彼はそれをおくびにも出さずに着いてきてくれる。その優しさにまた少し、泣きたくなった




駅前にある大きな喫茶店。その一番奥の席を選ぶと、彼は他の客席に背を向ける位置に座った
上着を脱ぎながらその正面に腰掛ける。そんな私を、サングラスの奥の瞳がじっと見つめているのが分かった
その視線に少しだけ緊張していると、店員さんがにこやかな笑みを浮かべてやって来た

「いらっしゃいませ。ご注文はお決まりでしょうか」
「えっと…本日のケーキセットをミルクティで」

このお店のおすすめはケーキセットで、その日その日で違うケーキを出してくれる。定番のショートケーキからミルフィーユ、ムースケーキにシフォンケーキ。種類が多いし値段も安いし、店はいつも女性客で賑わっている
一番隅のこの席はその賑やかさから少し切り離された空間になっていて、私のお気に入りだった

「僕も同じので」

どうするかと様子を伺おうとするよりも先に、彼はそう店員に告げていた
本当は違うのが良かったかもしれないのに良いのかなと不安になったけれど、でもきっとこれも彼の優しさで。そうならそれ以上何か聞く事は出来なかった

彼は何も言わず、ただじっと窓の外を眺めていた。外を流れる車や人を見ている様に思えたけれど、実際に彼の視線が何を捉えているのかは私には分からなかった
何か口にする事も出来ず、彼と同じ様に外を眺める
秋の穏やかな日差しがふんわりと世界を包み込んでいる

「お待たせいたしました」

程なくして、ケーキとミルクティが運ばれてきた
今日のケーキは苺のタルトだった。しっとりとしたタルト生地の上に小粒の苺がいくつも並んでいる。明るくて賑やかで、どこか優しい雰囲気のあるケーキだった

「……もう良いね」

店員が去ったのを見届けてから、イッキさんはそう言ってサングラスを外した
空色の瞳がまっすぐに私を見つめる

「改めて、久しぶり。元気だった?」
「はい……」

ああ、駄目だ
そう思った時にはもう遅かった
一気に緩んだ心がぼろぼろと崩れていく。滲んだ視界でイッキさんが驚いた様な表情を浮かべたのが見えた気がした
慌ててうつむく。もう手遅れなのは分かっていたけれど、せめてもの抵抗のつもりだった
けれどそれも無意味だった
カツリと軽い足音と共に、膝の上で握りしめていた手が包まれる。細い指。グローブ越しに伝わる暖かさ。また心が雪崩れていく

「……君はもっと、強い子だと思ってたよ」

その言葉に足が震える。呆れられてしまっただろうか。それとも嫌われてしまった?
でもそんな言葉をかける彼の口調は酷く優しくて、迷いながら合わせた視線はもっと暖かだった

「ねぇ、その涙は僕を想ってのものだって、そう、自惚れても良いのかな」

跪き、私の手を握るイッキさんの姿は死角になっていて他の客席からは見えていない
店の喧騒からも完全に切り離された様に、イッキさんだけを見つめる。青く、澄んだ、誠実な瞳

「僕はずっと君に会いたかったよ。あの時、いつかは君を忘れるって言ったけれど、そんな日は永遠に来ないだろうなってずっと思ってた。いないって分かっているのに街で君の姿を探したりね。馬鹿だよね。ケンにも散々呆れられたよ」

穏やかに語るイッキさんの指を握り返す。男の人にしては細く、繊細で優しい指先
いつの間にか涙は収まっていた。それでもまだ滲んでいる世界でぼんやりとイッキさんをとらえる

「あのメールが来た時、本当にうれしかったよ。舞い上がるくらいで、すぐに返事を送っちゃってさ」

私だって返事が来た時、うれしくてたまらなかった
そう伝えたいのに、喉が絡まって上手くいかない
そんな私を察するように、イッキさんは小さく頷くと頬に手を添えて、軽く撫でた。それだけでただただ安心した

「さっきもさ、駅で君を見付けた時、駆け寄りそうになるのを必死にこらえてたんだよ。柄にもない事でしょ?」

上手に喋れないままただ頷く
嬉しくて、嬉しくて。収まっていたはずの感情がぶり返しそうになる

「君も僕と同じ様に想ってくれていたって思っていいのかな」

必死に頷くと、彼はほっとした様に息を漏らした
そしてそのまま私の前髪を避けると、そこにそっと熱を降らせる
その暖かさに呆けたままになる私に緩やかに微笑んで、目の下を軽く拭ってくれる

「ねぇ。元通りにはしないし、出来ないけど、でももう一度始める事は出来るよね……?」
「……はいっ…」
「うん……。ありがとう、凄くうれしいよ」

どうにか返せた私の言葉にイッキさんは眩しそうに笑みを浮かべてくれた
そして改めて、手を握り直してまっすぐにこちらを見つめて、言う

「僕と、付き合ってください」

青い、空色の瞳がまっすぐにこちらを見つめる
誠実で、優しくて、暖かな瞳
私も今度こそ、この人に誠実でありたい

「はい……よろこんで」

震える喉から紡ぎだされた声は頼りない細さだった。本当はもっとちゃんと言いたかったのに。けれどイッキさんはそんな声でも嬉しそうに笑い返してくれた

「うん。……それじゃあ、改めてケーキを食べよう。ケーキ食べて、お茶飲んで、いろんな事を話そう。僕に教えて。会えなかった間、君がどう過ごしていたのか」
「私も知りたいです。イッキさんがどうしていたのか」
「うん、良いよ。教えてあげる。情けない事も多いけどね。全部教えてあげるよ」

そっと手を放して、イッキさんは改めて椅子に座る
暖かな温度が名残惜しかったけれど、でも寂しさは感じなかった。ずっと遠い存在になってしまっていたイッキさんが今目の前にいて、こうしてお互いに気持ちに触れる事が出来ている事だけで、幸せだった

「暗くなったら、星を見に行きましょう。素敵な場所を教えてもらったんです。……イッキさんと一緒に行きたいです」
「もちろん、良いよ。一緒に行こう。行って、星を見ようね」

あの時の私たちは歪で、お互いに相手に伝えるという事が下手だったけれど、でも今もう一度始める事は不可能じゃない筈だから
そう信じて、彼の傍にい続けたい