本日、うららかなり
詞紀が幻灯火の姿を見付けたのは昼下がりになってからだった。
すっかり緑に染まった桜の木にもたれて眠る姿はどこか眩しさすら感じられて、詞紀はわずかに目を細める。幻灯火の色素の薄い髪は風に踊り、その肩では小さな鳥が休んでいる。自分の姿を確認してから飛び去っていく小鳥を見送って、詞紀は幻灯火の隣に膝をついた。
「幻灯火様」
声をかけ、暫し待つ。
幻灯火は放っておくとすぐ寝てしまうし、一度寝るとなかなか起きてはくれない。
いつだったか、自分の話を無視したまま眠り、その上呼びかけにも全く応じない幻灯火を見て空疎尊が憤っていた事を思い出し詞紀はひとり笑みを浮かべた。
そんな深い眠りに陥る事が多い幻灯火だが、それでも詞紀の声だけは耳に届くようで、場所を選ばず寝こける幻灯火を起こすのは彼女の仕事だった。今日もいつもの様に自分の声が幻灯火に届くのを待ちながら、春の風に揺れる美しい毛先に目を奪われる。男性とは思えない程美しいその髪に、詞紀は密かに憧れを抱いていた。これと言った気遣いもしていないというのに、幻灯火の髪は女の詞紀が羨ましく思う程の美しい。いつかその秘訣を聞いてみたい、そんな事を漠然と詞紀は考えていた。
「――詞紀…?」
僅かに掠れた声と共に幻灯火が身じろぐ。ぼんやりと開かれた瞳で詞紀を捉えると、幻灯火はゆるりと微笑む。
「おはようございます幻灯火様。いくら暖かくなったとはいえ、この様な所で寝てはいけませんよ」
「ああ……だがここは気持ちが良いな、詞紀」
どこでも構わず寝てしまう幻灯火に、詞紀の忠告は届きそうもない。だがこれはいつもの事だし、幻灯火にとって心地の良い場所であるのならばそれがなによりだ、とどうしたって詞紀は思ってしまう。「姫さんは幻灯火に甘いな」と胡土前に言われた事が有るが、それも仕方がないと心の中で言い訳をする。この穏やかな表情を見てしまっては、全てを許してしまいたい気持ちになる。
詞紀の手に触れながら崩れた姿勢を正す幻灯火。そのまま指を絡められ、詞紀は自分の頬が熱を持った事を自覚した。
「詞紀?」
僅かに息を呑んだ詞紀を不思議そうに見つめる幻灯火。慌てて心を整え、何も無かった様に詞紀は立ち上がった。それにつられる様に立つ幻灯火に笑みを浮かべながら告げる。
「幻灯火様、散歩に行きませんか?」
季封村が一望できる高台で詞紀は足を止めた。隣の幻灯火も同じ様に立ち止まり、そしてひとつ息を吐く。
「やはりこの村は美しいな」
自分の生まれ育った季封を幻灯火に褒められると言うのは未だに嬉しく、心が子供の様に浮き足立つ。ありがとうございますと頷きながら眼下の景色を見渡す。
つい数日前までは満開の桜が一面を彩っていたが、今はそれも終わり、瑞々しい若葉が村を覆っている。芽吹きの季節は明るく、温かく、剣の封印や巫の儀と言う檻から解放された今は余計その穏やかさが心地よく感じられた。この穏やかさを幻灯火と共に味わう事が出来る今の有り難さを受け止めて、詞紀は幻灯火に向き合う。
「こちらにどうぞ、幻灯火様」
程よい木の下に幻灯火を導き、共に腰を下ろす。そして持ってきた包みの中から取りだした小さなひとつを彼の手に乗せる。
何かとそれを見た幻灯火の目が見開かれた。
「ちまきか!?」
詰め寄る様に詞紀に確認した幻灯火は小さな塊、ちまきを手に持ちわなわなと震えた。
そんな大げさな反応に思わず笑いながら詞紀は説明をする。
「以前、京に向かう途中にお約束しましたから。いつか作ると。京では色々とあって作れずにこんなに時間が経ってしまいましたが」
「詞紀が作ったのか?」
「はい」
「自分で?」
「細かい作り方が分からず人に聞いたところも有りますが、ほとんど私が」
詞紀とちまきを交互に見やりながら聞くと、幻灯火は暫し固まり、そして大きく息を吸ってから詞紀の手を握った。
「ありがとう、詞紀」
あまりに真摯そう言われ狼狽えそうになりながらも、詞紀の心は充足を得ていた。
旅の途中の小さな約束は詞紀の心に引っかかったままだった。村に戻った直後は忙しくなかなか実行する事が出来ないでいたが、ようやく叶える事が出来た。そしてそれを幻灯火が喜んでくれた。その事に詞紀の心は熱を帯び、同時に穏やかさを得た。
朝から勝手場を借りて作った他の料理と茶も取り出し、敷物の上に並べる。それらをまじまじと見つめてから、幻灯火は再び詞紀に礼を言った。
「これだけの物を作るのは大変だっただろう。感謝する」
「いえ……ど、どうぞ、召し上がってください」
くすぐったい喜びを感じながらそう言うと、幻灯火はひとつ頷いてからちまきの包みを開けた。そしてまじまじと見つめてから、ゆっくりと口を付ける。慎重に噛み締めながら味わい、目を見開いて詞紀を見つめる。
「実に美味だ……詞紀…!」
大袈裟な反応はあの時と変わらない。けれど自分が作ったものをこうも褒められると、やはり嬉しい。またしても熱くなる頬を隠すように自分もちまきを口に含み、その甘さを受け入れた。
その後も幻灯火は詞紀が作った料理をゆっくりと丁寧に味わってはひとつずつ感想を述べていった。あまりに素直に褒められるため恥ずかしくなった詞紀が止めても、幻灯火はそれをやめる事は無かった。
「今日は実に良い時間を過ごせた。感謝する、詞紀」
食事を終え、茶も飲んで一息ついてから、幻灯火は改めてそう言った。もう何度目かも分からない感謝の言葉を受けながら、詞紀はまたこうして時間を見付けては料理を作り、彼を誘って外で食事をしようと考えた。幻灯火が楽しそうにしている姿を見るのはやはり嬉しい。ただそれだけで心が穏やかになるような、そんな気がする。
ゆっくりと歩きながら宮へと戻る。途中、暖かい春の風が詞紀と幻灯火の髪を巻き上げた。乱れた前髪を抑えながら、隣を歩く幻灯火を伺う。すぐに視線に気付いた彼と目が合う。ゆるりと微笑まれ、詞紀もそれに促される様に笑みを浮かべた。
そのまま幻灯火の指に触れる。詞紀のものよりも太く、角が有り、少しかさついた大きな手。もっと深く絡ませようとするよりも先にその手に捕まり、引き寄せられた。
驚き、わずかに息を呑むと幻灯火の笑みが深くなった。その表情に何も言えなくなってしまい、ただ手を握り返す事でそれに応える。幻灯火もそれ以上は何も言わず、ふたりで来た道をただ戻る。
穏やかで緩やかな時を過ごしながら、これから先の未来もこのまま共に続くと良いと暖かな日の元で考えた。