ひだまり





いつもの事だ。そう考えて、無視してしまえたらどれだけ楽なのだろうか。もし自分がもっと大人ならば、もっと経験を積んでいるならば、もっと余裕を持てる人間だったならば。考えたところで無意味な事だとは分かっていても、それでもどうしても思ってしまう。ルルより年上だったら、と。




「あっ、エストエストー!」
以前より落ち着いたとはいえ、相変わらずルルは感情表現が豊かで派手だ。今日もいつもの様に寮のエントランスでこちらに向けて手を大きく振っている。それでも大きな声で名前を呼びながら駆け寄ってこなくなっただけマシではある。周りの生徒達もルルの性格に慣れてきたのか、こちらの様子を窺い見る数は以前より大分少なくなった。けれども恥ずかしい事に変わりはない。少しだけ歩みを速めてルルの元へ急ぐ。ルルの隣に立つアミィが苦笑しながら彼女の耳元で何かを言い、小さく手を振りながら去って行った。以前の彼女は僕に対して怯えや遠慮の様なものを見せていたけれど、最近ではそれも随分薄くなった。ルルのお陰、と考えるのがやはり自然なのだろうか。
僕に対しての怯えではなく、ルルと僕ふたりへの気遣いとしてこうして場を離れる事をアミィは度々してくれている。彼女なりの優しさなのだろう。それに当のルルが気付いていなくとも、きっとアミィは気にしない。そんな彼女の繊細さは嫌いではない。
「おはようエスト!」
「おはようございます、ルル。アミィは良いんですか?」
「今日はね、エルバート先生の授業お手伝いで少し早く行くんだって。早起きしてもうご飯も食べちゃっているの」
「そうですか。ではアミィは朝食後、わざわざ部屋に戻ってあなたを起こしてくれたんですね」
「ど、どうして分かるのっ?」
「今までの経験と勘です」
僕の言葉に口を尖らせて不服そうな声をもらすルルの仕草からは相変わらず子供っぽさが滲む。朝起きるのが苦手で、いつもアミィに起こしてもらっている。それでもたまに時間ギリギリになって慌ててしまう事も有る。ルル本人から何度も聞かされた事だった。最初の頃は彼女の世話をしているアミィに同情心を抱きもしたが、今となってはそれがふたりにとって丁度バランスのとれた関係の表れなのだと思っている。
「今日の朝ごはんはオムレツなんですって!メイプルシロップのかかったフレンチトーストも付いてるの」
小さな事で拗ねるルルは、同時に復活も早い。いつの間にか入手した朝食のメニューを上機嫌に述べるルルに苦笑を浮かべながら、朝の賑やかな食堂に向かう。




食堂は騒がしい。人が集まる場だから当然の事ではあるけれど、朝は特にそれが激しい。以前であればあまり長居はせず、シンプルなサラダを食べてさっさと離れていた空間だった。それがルルと過ごすようになって変わった。ルルが食べ終わるのを待つ、その時間が生まれた。
ルルは別に食べるのが遅い訳ではない。ただ単純に量が多いから、その分僕より時間がかかる。朝からよくそんなに食べられるものだなといっそ感心する程の量を、ルルはペロリと平らげる。それもラギの様にがっつくのではなく、ひと口ひと口味わって、美味しそうに食べる。それは食事とは栄養を摂取する、ただそれだけのものと考えていた僕とルルの大きな違いだった。
毎度毎度何がそんなに嬉しいのかと初めの頃は思っていたし、今もテーブルに並べられる料理の数々を見ると辟易としそうになる事も珍しくは無い。けれど、そうやって幸せそうに食事をするルルの姿を見るのは心地が良かった。騒がしい食堂という空間が不快に思えなくなる程に。
「本当にいらないの?」
「ええ、結構です」
フレンチトーストの最後のひとかけらを目で示しながら聞いてくる。ルルは自分が食べているものを僕にも勧めてくる事がよくある。こんなに美味しいのに!と言いながら。ひと口程度なら貰う事も多いけれど、やはり断る事の方が多い。なにせルルは甘いものが好きだ。見ているだけで胸やけが起きそうな程こってりとしたものでも平気な顔をして食べている。今も目の前にあるフレンチトーストにはたっぷりとシロップがかかっている。見た目より甘くない、と言ってはいるが、あくまでそれはルル基準だ。どう考えても甘ったるいそれを食べる余裕は今の僕には無い。
意外にもルルはこういうところでは僕が本気で断ればすぐに引いてくれる。普段あれだけ押しが強いのに、食事に関してはルルは諦めるのが早い。今も最後のフレンチトーストを大人しく口に運んでいる。
ルルと共に過ごす様になって僕の食事も変わった。未だに味の濃い物は苦手だし、量も多くは食べられないが、サラダだけで済ます事は随分と減った。今日もサラダの他にパンとスープを口にした。ルルはもっと食べた方が良いと日常的に言っているが、それでもこの変化が嬉しいらしく、僕が新しいメニューに手を出すのを見付けるとうっとうしいくらいに目を輝かせる。偉いわと年上ぶって褒める事も珍しくなく、その態度は流石に不満に思ってしまう。
「ごちそうさまでした」
ナイフとフォークを揃えてルルが言うと、すぐにメイドプーペがやってきて食器を下げる。それにお礼を言ってから立ち上がると、今日も一日頑張ろうねと柔らかな笑みで僕に告げた。




午後。全ての授業を終え、ルルの元へ向かう。今日は図書館で勉強を教えてほしいと頼まれていた。ルルは以前と比べたら随分と知識も増えたし、魔力も安定した。魔法を失敗するという事は大分少なくなったが、それでも学ばなければならない事はまだまだ多い。そしてルルはひとりで勉強する事にあまり向いていない。誰かと一緒に勉強し、分からない所は助言を貰いながら進めていくのが合っているタイプだ。彼女と出会ってからの数ヵ月間で分かった事だった。
この時間にルルがいる筈の教室が有るフロアまで行くと、ちょうど授業が終わったらしく何人かの生徒とすれ違う。その人波の中から緩やかなピンク色を見付け声をかけようとした体が中途半端な形で動きを止めた。
ルルはひとりの男子生徒と話をしていた。彼の事は知っている。成績優秀だがそれを鼻にかける事は全くしないフレンドリーな性格で知り合いも多い、周りからいい人と評される人物だ。
その彼が今、ルルと話をしている。ビラールやアルバロと同じくらいの身長の彼は腰を屈めてルルの話を聞いている。そんな彼に対してルルは笑みを浮かべている。誰に対しても明るく振る舞い、本人の気付かぬ内に相手の壁を壊してしまうルルの笑み。その笑みを浮かべる姿を見て、思わず来た道を引き返してしまう。
何も気にする事は無い。そうと分かっている筈なのに心がざわつく。そんな小さな自分に苛ついて、魔道書を握る手に力が篭る。ただとにかく今はその場を離れたい一心で、足を速めた。




「エスト!」
いつも通りの明るさで図書館に現れたルルは持ってきた数冊の参考書を机に置いて、一息ついてから隣に座る僕の顔を覗き込んだ。
「待たせちゃった?」
「いいえ、そんな事はありませんよ」
「……ほんとにほんと?怒ってない?」
疑わしげに見つめながらルルは言う。真っ直ぐなその琥珀色の瞳から逃げたくなって、そっと顔を逸らしたらルルはより一層不満そうに口を尖らした。その表情を横目で見て、思わず口を開く。
「何故……そんなに疑うんですか」
「だって……ほら!」
「なっ……!」
言うと同時に眉間に細い人差し指を押しつけられた。ぎょっとする僕の動きを真っ直ぐな視線で制しながら、ルルは頬を膨らまして続ける。
「エストはいつも難しい顔しているけど、今日はいつもよりもっと凄いんだもの。眉間の皺が深いわ。そう言う顔は良くないと思うの」
「ちょっ……わ、分かりましたから、指を離してください!」
「ほんとに?怒ってないの?」
押し付けられた指を軽く払うと、ルルは渋々と言った様子で僕から少し距離を取って座り直す。それでも諦めた訳ではないらしく、追及の手は緩めない。変な所でしつこいルルはこうなったらなかなか諦めてはくれない。それは経験上良く分かっている。ため息をひとつ吐いてから彼女の方に向き直る。
「確かに少々待ちましたが、その事で不機嫌になった訳じゃありません。ただ少し……寝不足なだけです」
――嘘だ。
「そうなの?エストが課題が終わらなくて寝不足になるなんて、珍しいわね」
もっともらしい勘違いをしてくれたルルはそれで納得したのか、イヴァン先生の授業は課題が多いものねとひとり頷く。
ルルに嘘をついた事で罪悪感が生まれた。けれど正直な事を話す事は出来ない。冗談の様に語る事も、余裕を持った姿勢で諭す事も出来ない。そんな自分の小ささにまた苛立ちが募る。
「でも本当に遅れちゃってごめんなさい。ついお話しちゃって」
「そう、ですか……」
さっきの光景が蘇る。気にする必要は無いと思えば思う程、さらに余計な事を考えてしまいそうになって、ただ口を噤むしかなくなる。不自然に黙り込んだ僕を不思議そうに見つめながらルルは続ける。
「さっきの授業で二人一組で実験をしたんだけど。ちょっと難しい実験だったのにあっさり成功出来たから一緒に何が良かったんだろうねって話していたの。結局理由は良く分からなかったんだけれど、お互いの魔力のバランスがちょうど良かったのかなって」
「――ルル」
ルルの言葉を遮る。その突然さと声の硬さに驚いた様に瞬きをするルルから目を逸らし言う。
「教えてほしいと言っていた問題はどれですか? 時間もあまり有りませんし、始めましょう」
「あ、うん。あのね、この問題なんだけど」
慌てて参考書広げるルルの言葉を聞きながら、膝に置いた手を握りしめた。こんな小さな事にすら乱されて、苛立ってしまう自分が心底情けなく思えた。




「あれー、エスト君がひとりなんて珍しいね?」
相変わらずの人を小馬鹿にした様な調子でアルバロが声をかけてきた。もうすぐ三時になるこの時間帯、食堂には人が少ない。アルバロがたまたま僕を見付けたのか、それともわざわざからかうためにやって来たのか。どちらなのかは分からないが、それもどうでも良い事だった。サラダを三分の一程残したままフォークを置くと、アルバロは嫌味な笑みを深くした。
「ルルちゃんは一緒じゃないのー? いつもはべったりなのに」
「あなたには関係ないでしょう」
「ふぅん」
アルバロのこう言う所には未だに慣れる事が出来ない。下らないからかいならある程度無視する事も流す事も出来るけれど、本心や本質を見透かそうとするこの態度は未だに苦手なままだった。そしてアルバロは、ルルが絡む事にはより一層しつこい。
「ま、いいけど。でも昨日、ルルちゃん言ってたよ。エストがなんだか怒ってるみたいなの、って」
「……そうですか」
「放っておくのもいいけど、でもエスト君、忘れない方がいいよ? ルルちゃんが人気者だって事」
僕が睨み上げるよりも早く、アルバロは背を向けた。勝手に言いたい事を言って去っていく。いつものアルバロだ。だからこそ余計に苛立つ。ルルが人を惹きつける魅力を持っている事はアルバロに言われるまでもなく分かっている。分かっているからこそ、改めて指摘されると心がざわつく。落ち着かなくなる。
あの日、ルルに勉強を教える約束をしたあの日から、ルルから少し距離を取るようになった。完全に無視するなんて事は出来ないけれど、それでもこうやって食事の時間をずらしたり、ルルがいるはずもない場所で時間を潰したり。そうやって彼女と過ごす時間を減らしている。
ルルといると心が満たされる。相変わらずの騒がしさや突拍子の無い行動に振り回される事も多いけれど、彼女の隣は居心地が良い。でも今は、一緒にいると小さな事を気にする自分に苛立ってしまう。そのせいでルルにきつく当ってしまう。だから少し距離を置こうと考えた。自分の考えを整理して、心を落ち着かせたかった。
けれどひとりになった所で、出口は未だに見えないままだ。




一日の最後の授業が終わってミルス・クレア内が騒がしくなる頃、僕は実験室にいた。実験棟の奥まった所にあるその部屋には外の喧騒もあまり届かない。落ち着いて実験をするにはうってつけだ。そう難しくもない課題だから実験はすぐに終わった。けれど僕は椅子に深く腰掛けたまま、魔道書を握りしめていた。
考えるのはルルの事。そして僕自身の事。
ルルの交友関係が広いのは今に始まった事ではない。同室のアミィや、ユリウスやノエル達と言った特に親しくしている面々以外にも、ルルには『お友達』が多い。珍しい転入生。そして更に珍しい無属性だったルルに注目が集まるのは当然の事だったが、そこから友達と呼べる存在をここまで増やせたのはルルのあの性格の賜物としか言えない。
飾る事無く自然体で、明るくて、一生懸命。そして何より人に積極的に関わっていくあの姿勢。それを鬱陶しく思う人間もいるだろう。不可解に思ったり、何か裏があるのではと警戒する人間も。かつての僕の様に。けれどそういうつもりは無いという事はルルを見ていればすぐに分かる。ただ単純な、人間としての好意を持って近付いてきているのだと。
当然中には彼女の存在を僻む者も、距離を取ろうと離れる者もいるだろうが、それ以上に親しくなった人間の方が多いはずだ。ルルは他人の作った壁を壊していくのが上手い。だからこそ僕は、今こうしてここにいられる。
ルルの性格は変わらないし、変える必要も無い。
――変わるべきは僕だ。それは分かっている。
分かっているのに、上手く出来ない。ルルが誰と親しくしていようとそれは彼女の自由だし、僕が何かを強制出来る事ではないのに、どうしても気にしてしまう。苛立ってしまう。そしてそれが表に出てしまう。あまり認めたくはない事だけれど、嫉妬してしまう。そしてその感情を上手く扱いきれない。誰かに執着する事なんて初めてで、どうしたら良いのか分からない。
もっと経験を積んでいたら、あるいはルルより年上だったならば、良い解決策が浮かぶのだろうか。例えばビラールの様に余裕を持って相手をする事が出来るのか。いくら考えたところで答えは見つからない。
「あ……」
今日何度目かも分からないため息をついたのと同時に、実験室の扉が開かれた。振り返ると、驚きと戸惑いの入り混じった表情で彼女が立っていた。
「……アミィ」
「ご、ごめんなさい……。灯りが点いていないから誰もいないのかと……」
眼鏡の奥の瞳を不安げに彷徨わせながらアミィが言う。そこでようやく、部屋が薄暗い事に気が付いた。知らぬうちに大分時間が経っていたらしい。
「いえ……。僕はもう終わりましたから、使って良いですよ」
「あ……」
ちょうど入り口を塞ぐ様に立っているアミィはそこから退く事はせず、荷物をまとめて立ち上がる僕を何か言いたげに見つめた。そして僅かな間の後、ひとつ息を吸ってから改めて僕を見て言った。
「最近ルルが……よくエストさんのお話をするんです」
静かに語り始めたアミィの言葉を聞く。彼女はたどたどしく、それでもしっかりとした意思を持って続ける。
「前からよく、エストさんのお話は聞いていたんです。色々な事を……ルルはいつも、とても楽しそうに話してくれるんです」
ルルは一体どこまで彼女に話しているのか。微笑みながら語るアミィを見て気になったけれど、取り敢えず今はそれは無視した。
「でも最近は……その、ちょっと違っていて……。エストさんに避けられている気がするって、言っていて」
申し訳なさそうにアミィは言う。なぜ彼女がそんな顔をするのか。これは僕とルルの問題で、そして原因は明らかに僕にあって、アミィは何も悪くないというのに。
「あの……何が有ったのかは聞きません。ただ……知っていてほしくて」
「……何をですか」
アミィは言葉を選ぶ様に一度口を噤んだ。それから僕の方をしっかりと見つめて言う。
「ルルはこうも言っています。エストさんは素敵だからちょっぴり心配になっちゃう、って」
「なっ……」
「以前よりも雰囲気が柔らかくなったから、他の人もあなたが素敵だって気付いちゃう……それが少し、心配だって……」
言いながら、アミィは顔を赤くして俯いた。でもそんな彼女よりも僕の方がもっと恥ずかしい。本当にルルはいつも何を話しているのか。素直なのは美点だと思うけれど、限度と言うものがある。頬の熱をやり過ごすために黙り込む僕をちらりと見上げてからアミィはひとつ息を吐いた。
「その……勝手な事を言ってしまってごめんなさい。でも一度、ルルと話をしてあげてください。お願いします」
「……善処します」
絞り出すように言うと、アミィはほっとした様に微笑んで、その場から一歩下がった。
荷物を抱え直して彼女の隣を過ぎて実験室を出る。アミィは暫くこちらを見てから、そっと扉を閉めた。その気配を背中に感じながら、僕はいつもよりも早足で薄暗い廊下を通り抜ける。ルルと話をするよりもまず先に、騒がしくなった自分の気持ちを落ち着けたかった。




湖のほとりはぞっとするほど静かだ。完全に日の落ちたこの時間は特に。夜の湖は不気味で怖いと言う人もいるけれど、僕はこの静寂と闇が好きだ。闇の中は落ち着く。小さな頃からそれは変わらない。
膝を抱えて座り込んで、考える。ルルにどう切り出せばいいのか。アミィと話をしてからずっとその事を考えているけれど、なかなかいい案が浮かばない。思い返してみたら、ルルはいつも僕に考える隙も与えない様に飛び込んでくる。
「エストエストー!!」
――そう、こうやって。
「なっ、ちょ、ルル!?」
突然斜め後ろから突っ込んできたルルを支えきれるはずも無く、彼女もろとも倒れ込む。その拍子に頭をぶつけたし、上に伸し掛かる形になったルルも軽いとは流石に言えない。けれど今はそんな事はどうでも良かった。眉を上げた表情で僕を見下ろすルルの目尻がわずかに歪んでいる事の方が問題だった。
「る……」
「やっと捕まえた!」
僕の言葉を遮ってルルは言う。殆ど叫んでいるその声に思わず動きが止まる。そんな僕に構う事無くルルは捲し立てた。
「エストってば最近ずっとわたしを避けているんだもの!食堂や図書館で探してもいないし!今だってもう夕ご飯の時間過ぎているのに全然来ないんだもん!どうして逃げるの!?エストのいじわる!」
一息に言うと、ルルは深呼吸してから口を結んだ。僕の瞳を覗き込むように一度見て、額を胸に押し付ける様にして倒れ込む。
「ルル……」
「エストのいじわる……。どうして避けるの?わたし何かしちゃった……?」
頼りなく揺れる語尾に罪悪感が膨らむ。乱れた桃色の毛先を直して、小さな頭を撫でる。瞬間ピクリとしたけれど、ルルはそのまま動こうとはしなかった。
「ルル……。ルル、すみません。あなたは何も悪くない」
「で、でもっ……」
「聞いてください、ルル」
僅かに震える背中を宥める様に、空いている手で軽く叩く。普段はあれだけ威勢が良くて、現に今も僕を勢い良く押し倒すようなルルがこうして怯えを見せる事は滅多に無い。そこでようやく、自分が考えている以上にルルを不安にさせ、傷つけていた事に気付いた。
「あなたに落ち度は何もありません。ただ僕の……僕の、問題です」
「どういうこと……?」
顔を上げたルルの瞳はやはり滲んでいて、思わず目を逸らしたくなる。けれどそれをどうにか堪えて、琥珀色を見つめ返す。
「自分自身に苛ついて、あなたから離れる事でそれを解決しようとした僕の独りよがりです。そのせいで余計ルルを傷つけました……すみません」
「……ねぇ、エスト。どうして苛々しちゃったの……?」
「それは……」
瞬間言いよどむ。真っ直ぐにこちらを見つめるルルから逃げる事は到底出来そうにない。けれど正面切って言ってしまえる程の度胸はまだ生まれなかった。
「それは……すみません。今はまだ……言えません」
「……どうして?わたしには言えない……?」
「あなたを信頼していないとか、そう言う事ではありません。ただ……もう少し、時間をください」
「時間?」
胸元をきつく掴む手を握る。僕よりも小さくて、少し柔らかいルルの手。この手を掴める距離に居続けるためには僕自身が変わらなければならない。逃げてひとりになっていては何も変わらない。急には無理でも、しっかり向き合ってひとつずつ解決していかなければならない。ルルの傍にいるために、それは必要な事だ。
「いつ言えるようになるかは正直分かりません。大分時間がかかるかもしれない。けれど必ずあなたに伝えます。僕にその準備が出来たら、必ず」
「……ほんと?」
「はい」
「ほんとに、ほんと?」
「ええ、もちろん。けれどルル、あまり変な期待はしないでくださいね。正直とても下らない事ですから」
「下らない事なのに避けてたのー!?」
「で、ですから申し訳ないと……。と、取り敢えず一旦退いてください!流石に苦しいです!」
ようやくいつもの調子に戻ったルルを半ば強引に押しのけて、体を起こす。未だに痛む頭と腰を気遣いながら座り、ルルに向き直る。同じ様に地面に腰を下したルルはちょっと拗ねたように僕を睨み上げた。
「エストに会えなくて寂しかったわ」
ルルはいつも真っ直ぐに感情を伝える。それが彼女の美点であり、今僕がここに居られる理由だ。ルルの様になる事は無理でも、彼女のこの素直さを少しくらいは身に付けなければならない。いつまでも気持ちを口に出す事を躊躇っているままではいられない。
「はい……僕もです」
「……えっ!?」
一瞬の間の後、頬を染めて目を大きく開いて驚くルルが続きを口にする前に捲し立てる。
「と、とにかく今回の事は本当に悪かったと思っています。ですから何かお詫びを……ルルがしたい事、何でも良いです。あなたはいつも色々と言っているでしょう?付き合います」
「えっ、ほ、ほんとに?」
ルルの事だから突拍子もない事を提案するかもしれないと一瞬不安に思ったけれど、それでも良かった。ルルが何を求めてきたとしても、今の僕にはそれを受け入れる責任がある。彼女を傷つけた事への責任が。
「えっとね、じゃあ!」
頬を赤らめたままのルルは勢いよく立ちあがって、左手を差し出した。
「一緒に寮に帰りましょう。手を繋いで」
完全に日が落ちて暗く、静かな湖の傍で、ルルの言葉が酷く心地よく思えた。白く小さなルルの手を掴んで立ち上がる。
「ええ、帰りましょう」
言うと、ルルは彼女らしいいつもの笑みを浮かべてくれた。久しぶりに見たその笑顔はとても温かかった。




数日後、僕は約束通りルルのお願いを聞いていた。ルルの提案はごくシンプルなもので、要はデートをしたいという事だった。それでは今度の休日に、と言うと、ルルは満面の笑みで頷いた。
当日のルルはいつも以上に僕に甘えたがった。手を繋ぎたいと言ったり、お揃いの小物が欲しいと言ったり。正直恥ずかしさが有ったけれど、それでもルルが楽しそうにしている姿を見るのは心が落ち着く。懐かしさを覚える程久しぶりの感覚だった。
「ねぇ、エスト」
「なんですか」
買い物も終わり、ルルが行きたかった場所も全て周り終わって、休憩も兼ねて入った喫茶店でルルは大きなパフェをぺろりと平らげた。そのスプーンを器に置いて、僕をじっと見る。
「エスト、大好きよ」
「なっ……」
唐突な言葉に驚いて、手にしたティーカップを落としそうになる。それを必死に堪えて、自分を落ち着かせる。幸いな事に、周りは空席が多くルルの言葉は僕にしか届いていない。
「だからね、エストが悩んでいる事が有ったら知りたいの。わたしに解決は出来なくても、一緒に考える事は出来ると思うの」
ね?と軽く首を傾げながら微笑むルル。
頬に熱くなったのが分かって俯きたくなる気持ちをどうにか抑え、分かったと頷くとルルは嬉しそうに頷き返した。胸の奥の方に生まれた穏やかでくすぐったい温かさをそのままにしたくて、紅茶に口を付ける。
仄かに甘い気持ちが体中に広がった。









2013年10月14日発行 エスト×ルルアンソロジー企画【僕の可愛い人だから】 寄稿