夢の向こう側へようこそ
リビングから微かに漏れるテレビの音を聞いて、暁月はやっぱりかと軽く息を吐いた
上着を脱ぎながらなるべく音をたてない様にそちらに向かうと、薄暗い部屋の真ん中のソファーでパジャマ姿の真奈が寝こけていた
今の時間とこの状況を考えれば真奈が自分の帰りを待っていたと言う事は明白で、暁月は僅かばかりの罪悪感を抱いた
相変わらず幼さの残る顔立ちだが、眠っている時はそれがさらにはっきりと表れる。穏やかなその表情を見てるとそのままにしてやりたい気持ちが湧いてくるが、そうするわけにもいかない。こんなところで寝たら風邪をひくかもしれないし、無理な体勢のせいで体を痛めるかもしれない
「真奈」
声をかけながらテレビを消す。ただ呼んだだけでは眠りの深い真奈は反応を返さない。床に膝をつき、軽く体をゆすってやりながらもう一度名前を呼ぶ
「真奈」
「ん……」
ゆっくりと上げられた瞼の奥で、ぼんやりとした瞳が暁月の姿をとらえる
「待ってなくて良いって言ったろ?」
「うん……おかえり」
言いながら、暁月の首に腕をまわし抱きついてくる。眠い時の真奈は普段より数段素直だ。ずるずるとソファーから落ちそうになる体を支えてやる
「ただいま」
暁月の言葉に頷きながらも、真奈が離れる気配はない。仕方なく彼女を抱えたまま立ち上がり、寝室へ向かう
「真奈、お前……太ったか?」
「サイテー!」
「ぐっ…!おいこら暴れるな落ちるぞ!」
ストレートな言葉で一気に意識が覚醒した真奈が暁月の腕の中で暴れる。それを押さえつけるようにしながらどうにか運ぶ
眠いからと言って油断していた。真奈はすっかりと拗ねてしまっている。その表情の幼さは出会った頃とさほど変わりがない
「悪かったって。冗談だ」
「暁月のばかっ!」
「だから謝ってんだろ?あとでかい声出すなって、近所迷惑」
頬膨らませたままの真奈をベッドに降ろし、暁月もそのまま倒れ込む。ここのところ忙しい日々が続き、流石に疲れがたまっていた。ようやくひと段落ついたのでぐっすり眠れると思っていたが、帰宅早々真奈の機嫌を損ねてしまうとは予想外だった。だが自分に非があると言うのは何となく分かっているので、これ以上強く出る事も出来ない
「………そのまま寝るの?」
ベッドに座り込んだ真奈が聞いてくる。胸元まで伸びた茶色の髪がふわふわと揺れるのを見ながら頷く
「シャワーは?」
「朝あびるよ」
その言葉で真奈が暁月を気遣っていると言う事が分かって、口元が緩む
真奈は素直な性分だけれど、意地っ張りなところが有る。特に気を損ねている時は気になっている事や心配な事を素直に聞けない。だからってなにも言わずに逃げたりはしないのが、真奈の良いところだと暁月は思っている
「まーな」
未だに座り込んだままの真奈を見ながら、自分の横を軽くはたく
それを見て真奈はむぅと唇を尖らせたが、それでも渋々と言った様子で暁月の隣に寝転がる。伸ばされた腕に頭を乗せ、真奈は暁月の表情を窺うように覗き込む
「思ってたより元気そう」
「そーかぁ?」
「もっとぼろぼろになってると思ってたよ」
「充分ぼろぼろだけどな」
「…そうなの?」
「見えねぇ?」
「うん」
「家のドア開けるまで、死人みたいな顔してた」
「うそぉ」
「死人は言い過ぎか。でも気分的にはそんな感じだったぞ」
「そう…。じゃあお腹すいてるんじゃない?なんか食べる?」
「いや、この時間から食うのはな、良いよ」
「そう?」
「それに、真奈の顔見たら疲れ吹っ飛んだから大丈夫」
「なっ…」
この薄暗さでも分かるほど、真奈の顔がみるみると赤く染まっていく
相変わらずな素直な反応に堪え切れない笑いがもれる暁月を悔しそうに見ながら、真奈は言う
「暁月の腕堅い!痛いっ!」
「枕にしといてその言いぐさはないだろ!?大体でかい声出すなってさっきも言ったろ」
「だ、大体暁月はっ、」
「あー、分かった分かった」
照れ隠しに騒ぐ真奈を抱きしめて押さえつける。初めはもごもごと何かを言っていたが、すぐに大人しくなった真奈の髪の毛を指先で撫でる
暁月の腕の中で、真奈は何も言わずただ胸元に顔を埋めた。その頬はまだ微かに赤かったけれど、数分もしないうちに静かな寝息が聞こえてくる
「ほんと、寝付き良いよな…」
小さくぼやく暁月に気付く事なく眠る真奈の薄っぺらい肩に布団をかけてやる
なかなか帰ってこない暁月を眠い目をこすりながら待っていたと思うと、どうしようもなく穏やかで暖かい気持ちに襲われた。昔、あの時代で生きていた頃は感じることのなかった暖かさだ
今でも時折、あの時代での事を思い出す。真奈にとっては非日常だったそれは、暁月には日常だった。ひとり平穏なこの時代に居る事に罪悪感を感じる事も無かったとは言えない。けれどあの時、泉に沈む真奈を追った自分の選択は間違いではなかったと、それだけははっきりと分かっている
なんてことのない日々を穏やかに過ごせる今のこの生活を選んだ事は決して間違いなんかではない
穏やかに眠る真奈の額にひとつキスをして、暁月も瞼を閉じた。もし夢を見るのなら、今この時間と変わらない幸せなものであれば良いと思いながら
title by 彩時雨