虹の尾を掴む
「暁月こんなところに居たの!?早く来て!御使い様がっ」
血相を変えてやって来た瑠璃丸の言葉を聞いて、瞬時に暁月の脳裏にいくつかの選択肢が浮かんだ
道鬼斎の手下が来たか、それとも奴本人が来たか。それほどの大事じゃないにしても相手はあの御使いだ。いつ何をしでかすか分かったものではない。怪我をしたか体調を崩したか行方知れずになったか。そのどれも可能性は十二分にある
軽く舌打ちをしつつ、早く来いと急かす瑠璃丸の後を追った
「……で、これはなんだ?瑠璃」
その光景を唖然と見た後、すぐに我に返った暁月は隣に立つ瑠璃丸を睨んだ
そんな暁月の視線などものともせず瑠璃丸は眼前の光景を確認して安堵した様な溜め息を吐いた。暁月としては一体この光景のどこにほっとしたのか、まるで理解できない
小島弥太郎の舘に着いた瑠璃丸に続きながら、暁月は疑問を抱いていた。敵が来た時に感じる緊張感は皆無な上、瑠璃丸が向かう先からは酒の匂いが漂ってくる。そろそろ問いただそうと思ったのと瑠璃丸が戸を開けたのはほぼ同時だった
そこに有ったのは幾つかの膳、数え切れないほどの銚子に盃、そして上半身をゆらゆらと揺らしながら座りこむ御使いの姿だった
「ウキッ!」
そんな御使いの周りをウロウロしては心配そうに様子を窺っていたサルが瑠璃丸の姿を確認すると跳ねる様にして向かってきた。その顔は先程の瑠璃丸と同じ様に安堵感に満ちていて、暁月は何も言わずに溜め息を吐き出した
「初めは御屋形様と小島様、綾姫様達もいたんだけどね、御屋形様はやる事があるからって先代連れてどっかに行っちゃって、そのあとに綾姫様が目を離してる隙に小島様が御使い様にお酒たくさん飲ませちゃって…」
「……で、その小島様は今どこにいるんだ?」
「綾姫様にこっぴどく叱られてた……多分、今も」
「そうか……」
綾姫の兄に対する厳しさは暁月も知っている。特に御使いが絡むとそれが激しくなると言う事も。どこでその兄妹のやり取りが行われているかを気配だけで探り、その付近には近寄らない様にしようと心に決めた
つまりは瑠璃丸はサルとふたりだけで取り残され手に負えなくなったから自分に助けを求めた、ということらしい。そこでふと、疑問が浮かぶ
「どうして俺を呼んだんだ?翠あたりが適役だろ」
人当たりの良い翠炎は酔っぱらった相手をなだめるのも上手い。御使いは彼の言うことは比較的素直に聞くようだし、翠炎に頼む方が自分に任せるよりも良いと言うことは暁月自身も簡単に考え付いた
「それがさ、御使い様が暁月を、」
「あかつき……?」
瑠璃丸のその言葉を聞いて、それまでずっと俯きぼんやりとしていた御使いがゆっくりと顔を上げた。そして反応が有ったことに驚く暁月の姿を確認すると、とても酔っ払いとは思えない程の素早さで立ち上がり嬉しそうに駆け寄ってきた
「暁月っ!」
「お、おいっ!?」
そのまま勢いを落とすことなく暁月の胸にぶつかる様にして飛び込むと、真奈は細い腕を暁月の背中に回し、そのまましがみ付いてきた。その勢いと力強さにいささか怯む暁月の表情をちらりと見ると瑠璃丸は早口で告げた
「御使い様、酔っぱらってからずっと暁月の事話してたんだよね。だから連れてきたって訳。じゃ、あとよろしくねっ」
「あ、おい瑠璃!待て!!」
暁月の制止を完全に無視し、瑠璃丸はサルを連れ逃げ去った。流石というべきか、その逃げ足は常人ではありえない速さだった
だが今の自分の問題はそこではない。しがみ付き離れようとしないこの御使いをどうにかしなければ
強引に引き剥がす事も可能だが、どうにもやりづらい。真奈は日ごろから体力自慢をしているが、そうは言ってもただの女だ。華奢だし腕も細い。暁月が力を入れてしまえば簡単に折れてしまいそうで、少し怖いものがある
取り合えず戸が開けられたままのこの状況はまずい。誰か通りかかりでもしたら一体どう弁明すればいいのか。先代に見つかったら大変な目に遭う事は確実だ
体にへばりつき言葉になっていない何かをむにゃむにゃと言っている真奈を支えつつ室内に入り、戸を閉める。薄暗い部屋の中には酒の匂いが充満していた
「ねぇ、あかつきぃ」
「なっ……」
いつもの溌剌とした言葉とは違い、甘ったるく話しかけられて思わず動揺する
いや、動揺ならこの部屋に来てからずっとしていた。酒を飲んでふらふらになっている事にも、急に抱きついた事にも、自分の名を呼んでいた事にも、いつもとは違う赤らんだ表情にも
どうしたらいいのか分からない事だらけで、早くこの状況から逃げ出したいとさえ思った。だがこんな状態の真奈をひとりにし、果ては他の軒猿に預けるのかと考えるとそれも出来なかった。何故かは定かではないが、とにかく自分が何とかしなければと言う気持ちが強かった。しかし何とか、とはいっても対処法はまるで浮かんではこない
「ねぇったらぁ」
「な……なんだよ…」
暁月が黙っていた事に気を悪くしたのか、真奈は頬を膨らませていた。そんな子供の様な反応とこの部屋の酒の匂いがあまりにも対照的で、ますますどうしたらいいのか分からなくなる
「暁月ものもう!」
「はぁ!?」
拗ねていたと思ったら今度は明るく宣言し、暁月から離れると床に散らばった銚子と盃を拾い始める。その足取りは覚束ないなんてものではなく、慌てて腕を掴んだ
「おい!いいから座れ!もう飲むな!」
「ほら暁月っ」
暁月の忠告などまるで無視し、真奈は盃を強引に差し出す。仕方なしにそれを受け取りつつ、真奈を座らせる。その間も真奈は楽しげに鼻歌を歌いながら銚子をゆらゆらと揺らしては暁月の様子を何度も窺っていた
そして暁月が座ったのを確認すると待ってたと言わんばかりの勢いで盃に酒を注いだ。拍子に少し零れたが、真奈がそれに気付いた様子は無い
「ほらのんでっ!ぐいっと!」
明るく急かされ、拒否すると面倒な事になりそうと判断し酒を一気に呷った。そう言う事への鍛錬も積んでいる軒猿にとってこの程度の量は大したことではない。それに、こんな状況は飲んででもいないとやっていられないとも思った。その暁月の態度に気を良くしたのか、真奈は嬉しそうに自分の盃にも酒を注ぎ始めた
「こら待て!お前はもう飲むな!」
「えぇー」
慌ててその手を止めると不服そうな声を漏らした。だがこれ以上飲ますわけにはいかない。もう真奈の許容範囲を越えている事は明らかだし、更に飲ませたと綾姫に知られれば今度は暁月が説教を食らうことになる。それだけは避けなければ
真奈の手の届かない所に銚子と盃を避け、そちらへ体を伸ばそうとする真奈自身を捕まえる
「良いから大人しく座ってろ!」
「あ、そうだ!あの煮物がね、美味しくて」
「座れ!!」
思わず語尾が荒くなったが、真奈はその事に驚いた様子は見せずにまた頬を膨らませた
常日頃から真奈とは会話がかみ合わない部分がある事は確かだ。だがそれは住んでいた時代が違うことからくる認識の差や無知によるもので、相手の話を無視すると言うことは真奈はしない。だが今の彼女は暁月の話の半分も耳に入っているかどうか怪しい程だった
どうしたらと思案する暁月の隣に座る真奈は服の端や髪の毛をいじっている。どうやら好きに動けない事が続き、本格的に拗ねたらしい
ますます面倒な状況になった事に暁月が溜め息を吐いたのと、なにか思い立ったように真奈が顔を上げたのはほぼ同時だった
「あかつきっ!」
「なっ……!」
そのままの勢いで抱きつかれ、暁月は慌てて自分と真奈の体を支えた。全体重を預けてくる真奈と体が自然と密着し、暁月は今晩何度目かも分からない動揺をした
「お、おい…!」
引き剥がそうにもそれは出来ず、ただ上ずった声をあげるだけの暁月の首元に顔を埋めた真奈はひとり楽しそうに笑う
「暁月かたーい」
「はぁっ!?」
「骨?筋肉?いいなーうらやましー」
暁月の肩をぱしぱしと叩きながら言う真奈を見て、何度目かも分からない溜め息がもれる。話にも行動にも脈絡がない。とても追いつけない。しがみ付かれているせいで真奈の熱がそのまま伝わり、酷く落ち着かない。どうにかしようにも手段が見つからず、ただ天を仰いだ
「……真奈」
「んー…?」
「取り合えず離れろ」
「いやっ」
唯一浮かんだまともな対処法を試してみたが、逆効果だったらしい
暁月の言葉を聞いた途端、真奈はしがみ付くその力を強めた。その拍子に髪や吐息が首元を撫で、暁月は自分の選択を後悔した。酒の匂いが充満した部屋で真奈を受け止めながら落ち着かない時を過ごす。短時間ならまだ問題ないが、この調子じゃいつまで続くか分かったものではない。誰かに助けを、とも思ったがこんな状況を見られるのは避けたかった
「真奈…?」
暫くあれやこれやと考えていたが、ふと真奈が静かになった事に気付いた。声をかけても反応が無く、顔を覗き込むとその瞼はしっかりと閉じられており、胸元がゆっくりと上下に動いていた
「寝たのか…」
なんだか一気に気が抜け、そのままズルズルと倒れ込んだ。大した事はしていないはずなのにどっと疲れてしまった
上に乗っかった真奈の体をゆっくり床に降ろし、襟元を掴んだままの手をそっと外す。眠っているくせに思ったよりもその力が強く、少し驚く。最後の指を外し、乱れた真奈の着物を直す。白い腿が目に入ったが、何も見なかったと自分に言い聞かせた
真奈はともかくこの部屋は片づけなければいけない。誰か女中を呼ぼうと立ち上がりかけた暁月の裾が何かに引っかかる
「…真奈?」
何かと思い見ると真奈の細い指がしっかりと掴んでいた。またかと外そうとしたが、今度は指を捕られてしまう。本当は起きているんじゃ、という疑いを一瞬持ったが、瞼はしっかりと閉じられているし狸寝入りくらい暁月は難なく見抜ける。となると無意識のうちに暁月を引きとめたと言うことになる。一体どうして、という疑問に答えられる唯一の存在は呑気に寝息を立て続けている為それも叶わないが
「はぁ……」
どうせその内誰か、瑠璃丸から話を聞いた軒猿あたりが様子を見に来るだろう。その時助けを頼めばいい。もし運悪く先代が来てしまった場合はそれまでだ。腹を括って説教を受け止めるしかない
寝転がる真奈の隣に座り直し、頬にかかった髪を避けてやる。するとくすぐったかったのか軽く身じろぎをし、その反応に暁月は自分でも驚くほど動揺してしまった。だが真奈はそんな暁月の動揺になど気付きもせず眠り続ける
今晩はこうやって動揺してばかりで酷く疲れた。ぐったりした気分でこの後どう真奈に接するかを思案する。酔っぱらったと言うことをからかうか、それとも彼女の名誉のためにも黙っておくか。そもそも起きた時、真奈は自分がどうなっていたかをきちんと覚えているんだろうか。すっかり忘れている、なんて事も大いにあり得る。その場合の説明も考えておかなければならない
頭をガシガシと掻きながら考えあぐねる暁月の元に翠炎が様子を見にやってきたのは、それから半刻後の事だった
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