どうか、幸せに。そんな事、言えっこない





それは暁月の希望だった
私を、平和な世界に帰す事
暁月と離れ離れになってしまうのは寂しい。けれど元の世界には家族も友達もいる。とても捨てられない。それにここは平和とは言えない世界だ。いつ誰が死んでもおかしくはない、危険な世界。そんなところに居続けるのが得策とはどう考えても思えない。それに謙信さまは助かって、私のするべき事は終わった
帰るのが、当然の選択だった

お前も、いなくなるんだな…

消え入りそうな、泣きそうな、暁月の声がこびり付いて離れない






「っ…!」

時計の針の音がやけに響く真っ暗な部屋の中
これでもう何度目だろう
夢に見るのは。悪夢に襲われた様に飛び起きるのは。滲んだ汗で額に貼りついた前髪が気持ち悪い

「何時…?」

寝起きの掠れた声で言いながら、暗闇に浮かんだ時計を確認する。3時10分前。深夜のこの時間、住宅地は不気味なほど静か
鬱陶しい前髪を退けながらベッドから這い出てリビングに降りる。喉がカラカラでつらい。冷たい水を飲みたい
低く唸る冷蔵庫を開けて500mlペットボトルを取り出して直接口を付けて飲む。行儀が悪いけれど、それを咎める親は起きてこないだろうし、そもそもこれは私専用の水だ。問題は無い
良く冷えた水が喉を通って食道へ流れていくこの感じ。喉の渇きが治まったからペットボトルを口から外し一息つく。うん、少し落ち着いた
嫌な汗のせいで顔がべたついて気持ちが悪いから、洗面所に向かって適当に水をかける。石鹸は使わない。濡れた顔をタオルでゴシ、と拭く。やっとすっきり出来た。化粧水は…面倒だからいい
真っ暗なリビングでする事はもう無いから、タオルを持って部屋に戻る

そもそも、第一印象は最悪だった
状況が分からなくて混乱してた私を乱暴に殴るし口も悪いしひたすら疑うし、そんな人を信用するなんて無理だ、と思っていた
謙信さまや翠炎、終夜は凄く優しくしてくれたから余計目立った。悪い方へ。勿論謙信さま達が良くしてくれたのは私を「御使い様」として扱ってくれていたからだと分かっていたけれど。それでもこの人とは絶対に仲良く出来ない、って初めは思っていた
でも少しずつ親しくなって、実は良い奴なんじゃって感じたし下らない言い合いをするのもなんだか妙に楽しかった
いつから好きだったのかなんて私にも分からない。気付いたら、好きだった。よくある話だ

暗い部屋に戻って来たけれど、眠れる気がしない
かと言ってやりたい事も無いし、何となくカーテンを開けてみた。見えるのは闇、なんかではない。街灯がついているし、時々通る車のライトも見える。自然の暗闇なんてこの時代には存在しない
新月の、それも曇っている夜はとても暗い。月の光も星の光も無い。真っ暗闇
初めて見た時は怖かった。その晩の護衛についていてくれた雅刀に「これが普通なの?」と聞いたら「慣れろ」とぶっきら棒に返されたのを今でも覚えている
暗いのは家の中でも変わらない。火が無い限り殆ど闇だ。夜にふと目が覚めても、その闇に目が慣れるまでは何も見えない。無理して歩くと何かにぶつかって、物音を聞いた軒猿の誰かが駆けつけてきてしまうなんて事が何度か有った
そう、彼らはみんな常に緊張感を保っていた。瑠璃丸くんですら
そういう世界だったし、そういう立場だった。何が有るか分からない、少しの油断で簡単に死んでしまう時代

現実味が無かった。戦なんて。戦国時代なんて
けれど川中島での様子を見て、ああこれが現実なんだなとやっと理解した。そしてみんながそういう世界で当り前に様に生きてきたって事を

私は暁月が好きだ。好きだった
口が悪くて一言多いけれど、常に私の事を気遣っていてくれた事にも気付いてた。素直じゃない事も、仲間思いな事も、全部好きだった
暁月が言った。帰れって。お前の時代に。平和な時代に
最初は嫌だった。でも暁月は譲らない。暁月の言葉は正しかった。だってあそこは危ない。いつ死ぬか分からない。お前には待ってる家族もいる。また道鬼斎に狙われるかもしれない
だから納得した。本当は嫌だったけれど納得した。それが暁月の願いだって思ったから
拗ねたように私から目を逸らす彼の願いだって。そう、自分を納得させた。なのに、

お前も、いなくなるんだな…

離れちゃいけなかった。駄目だったんだ
翠炎を、親友と言った翠炎をあんな形で亡くして、傷ついていた暁月を置いていってしまった
泣きそうな、寂しそうな、弱々しい、子供みたいな声で呟いた暁月を。私は置いていってしまった
暁月がなんて言おうと、意地でもあそこに残るべきだった

乱暴にカーテンを閉める
黒くなった窓に映る情けなさすぎる自分の顔をこれ以上見るのは嫌だった
そのままベッドに倒れ込む。柔らかい、背骨や肩の痛くならないベッド。あっちでは手に入るはずもない寝具
握ったままだったタオルに顔を埋める。まだほんの少し湿ってる
暁月はあの後どうしたんだろう
軒猿を続けるのかな。頭目にはなったのかな。刀儀さんみたいに下の子たちを育てているのかな。幸せに、なったのかな
分からない。そんなの。知る術もない
大体幸せにって何
あの乱世で、軒猿と言う立場で、幸せに?どうやって?
謙信さまの為なら命すらも捨てる。忍は人じゃないって言っていた。それが、幸せに?
どこかの戦で、何かの任務で、死んでしまった
暁月が幸せに年を取り幸せに人生を全うした姿なんかよりもよっぽど想像が出来る

私が残ったからって何かが出来たとは思えない。けれど彼の隣で、最後の日が来てしまう直前まで一緒にいられたら。ほんの少しでも暁月に幸せをあげられたかもしれない
私と暁月の価値観が違うのは分かってる。偉そうな考えだとも分かってる
けれど何もしないまま帰ってきてしまった今のこの状況よりはずっと良いと思える

「暁月……」

暁月に会いたい。声を聞きたい。うなされる様な夢ではなくて。ちゃんと体温を感じたい。言いたい事がいっぱいある。聞きたい事も。一緒に沢山の時間を過ごしたい
でももう無理だ。私が立ち切ってしまった
時は戻せない。あの泉はただの泉に戻った。私に出来る事はもう何も無い

「あかつき……」

タオルで押さえられてくぐもった私の声は、時計の音に遮られて消えた