とどかない、とどけない
もう会わない方が良い。ここには来るな
そう言った先生の声が、今でも耳から離れない
初恋の行く道。この3作目を、先生は自分の恋愛の墓標だと言っていた
あの時はただその言葉を聞いていただけで、意味が良く分からなかった。その上直後にあんな事を言われて、余計頭が混乱した
先生は一体どんな気持ちであの作品を書いたんだろう
一度だけ覗いた執筆中の少し怖いとさえ思える顔
あの表情を見ただけで何を考えていたか細かく分かるほど、私は先生の事をまだ知らない
会いたいと思う
会って、顔を見て、あの声を聞きたい
ううん。何も話せなくても良い。ただ姿を見るだけでも
けれどそう願っただけでは何も起きない
作家と女子高生。接点なんてまるで無い
外出する度に周りを気にして、似た背中を見つけただけで足が止まってしまう
そんな事を繰り返しても、先生には会えない
いつだったか一緒にアナスタシアに行った時、先生は久々に外に出たと言っていた
多分、普段からあまり外出はしないんだ。したとしてもバーか本屋に寄る程度で
平日は学校に行っている私と先生が何の連絡も無しに街でばったり、なんてあり得ないと言っても良いくらいだと思う
あの日、先生は書き終えたと言った。封筒を渡せば終わりだと
どうなったのかな。もう出版するのかな
どうやって本が出版されるのかなんて知識は無いに等しい。いつ発売するのかを知るには、パソコンで調べるしかない
早く読みたい。先生があんな表情で書き綴ったものがどんな作品なのか、早く読みたい
けれど読んでしまったら、そこで先生との接点が本当に何も無くなってしまいそうで、少し怖い
先生は私の事なんてもう忘れているかもしれない
だってそうだ
先生はきっと忙しい日々を過ごしていて、ほんの数回会って、ほんの数回部屋に行ってコーヒーを淹れただけの私の事なんて、忘れててもおかしくない
それでも会いたいと言う気持ちは変わらない
先生が私の事なんてこれっぽっちも覚えていなくても構わない。会って何かをしたいって言う訳でもない
ただ会って、会って…それだけでいい
「せんせい…」
ベッドに倒れ込んで、キャミソール一枚から伸びた自分の腕をぎゅうと抱き込む
それでも、寂しさは消えたりしなかった
出版の日取りも、それに伴うイベント等の予定も決まった。自分に出来る事はもうほとんど無い
打ち合わせから帰宅し、薄暗い部屋の電気を付けないまま鞄を放る様に置き捨てる
資料やらなんやらが散在している仕事部屋以外は物が少なく殺風景な部屋の中で、無意識に深いため息を吐き出す
そこでやっと自分の喉が渇いている事に気付いて湯を沸かし、緩慢な動作でコーヒーを淹れる
瞬間、このシンプルな台所で、妙に楽しそうにコーヒーを淹れていた彼女の姿がふと脳裏を過ぎる
それを振り払いつつ呑んだ黒い液体は、予想以上の不味さだった